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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.16 (2009年8月公開)

異なる世界の人の話に積極的に耳を傾けることが
柔軟な発想や、物事に立ち向かう勇気につながる!
その指導方針は河合塾時代の経験に基づいています

早稲田大学ラグビー蹴球部 監督
中竹 竜二さん

講習生

早稲田大学ラグビー蹴球部 監督 中竹 竜二さん

河合塾講師の強烈な人生経験談に刺激を受けた

・・ラグビーを始めたのはいつごろからですか。

中竹 小学校1年生からです。自宅近くに河川敷のグラウンドがあり、ラグビー教室が開かれていました。2歳上の兄が参加していた関係で、私も始めました。

その後もラグビーを続け、高校(福岡県立東筑高校)でもラグビー部に所属。花園(高校ラグビーの全国大会が開催される会場)をめざして練習に明け暮れましたが、1年次が県大会ベスト4、2年次は準優勝、3年次はベスト8で、残念ながら夢は叶いませんでした。

・・河合塾に通われたきっかけは何ですか。

中竹 ラグビー漬けの高校時代を過ごしましたから、学業成績は惨憺たるものでした。現役のときは早稲田大学も受験したのですが、完全な「記念受験」で、合格には程遠い成績だったと思います。結局、九州の大学に入学しましたが、入学後、やはり早稲田大学に行きたいという思いが強くなっていったのです。そこで、いわゆる「仮面浪人」を決意し、河合塾の講座を受講しました。

実は、当初は高校まででラグビーはやめるつもりでした。有終の美を飾るためにも、花園に行って、完全燃焼して終えたいと考えていました。地元マスコミから優勝候補に挙げられ、今年こそは花園に行けるはずだと、その気にもなっていました。ですから、県予選が始まる前に、いくつかの大学からスポーツ推薦入学の勧誘もいただいたのですが、すべて断りました。ところが、現実にはベスト8で敗退してしまいました。このままでは中途半端になってしまう。何らかのかたちでリベンジを果たしたい。となると、最初に入学した大学も九州では強豪ですが、どうせラグビーを続けるのなら、日本一をめざせる早稲田大学に行きたいと考えたわけです。

・・河合塾時代のことで印象に残っていることはありますか。

中竹 高校までほとんど勉強していませんでしたから、まともに問題演習に取り組むのも、解法のテクニックの解説を聞くのも初めてのような状態でした。他の受験生は皆、こんな勉強をしていたのか。それなら合格するのも当然だと、納得したことを覚えています(笑)。

もっとも、そうした教育内容もさることながら、私が河合塾の講座を受講して良かったと感じているのは、ユニークな講師の方々との出会いです。授業中に折に触れて、講師の方々の強烈な生きざまが語られます。その話に刺激を受け、自分も頑張ろうというエネルギーをもらいました。

使命感にかられて、主将、そして監督に就任

・・早稲田大学時代の思い出を聞かせてください。

中竹 授業には真面目に出席していましたから、成績は比較的良い方だったと思います。河合塾時代の友人や、授業で知り合った友人など、交友関係も他のラグビー部員よりも幅広かった気がします。

・・ラグビー部で4年次には主将も務められていますね。

中竹 私は3年生までレギュラーではありませんでした。1年生からレギュラーとして活躍している選手もおり、一般的な感覚でいえば、そうした選手が主将を務めるのが常識といえるかもしれません。けれども、同期の部員たちが「それでは勝てない。主将は中竹でなければダメだ」と強く主張したのです。

・・どのような点が同期の部員から評価されたのでしょうか。

中竹 早稲田大学のラグビー部は、強烈なパーソナリティの集団です。その分、一つ間違うと、バラバラになり、団結力が薄れてしまう危険性もはらんでいます。私は、たとえレギュラーでなくても、何らかのかたちでチームに貢献したいという意識が強く、かつ多様な個のエネルギーをいかに組み合わせればいいのか、常に心を配っていたつもりです。それから、体育会の組織は上下関係が厳しく、下級生はなかなか意見を言えない雰囲気があります。けれども私は、監督、コーチに対しても、理不尽なことに対しては、きちんとおかしいと言い続けてきました。そもそもカリスマというものは、思いつきで戦術を立てたりするので(笑)、誰かが指摘しないと、何日も無駄な練習をすることになりかねません。時には、下級生でありながら反論する私の態度に、「やめてしまえ」と激怒されたこともありましたが、信念を貫き通しました。それが同期の友人たちに評価されたのでしょう。

主将になった4年次は、残念ながら大学選手権は明治大学に敗れ準優勝でしたが、レギュラーとしてフランカーを務めました。

・・大学卒業後はどのような活動をされてきたのですか。

中竹 イギリスの語学学校に留学しました。ところが入学してみると、日本人学生だけが固まっている状態で、これでは意味がないと感じ、日本人がいない語学学校に再入学しました。さらに、学ぶうちにより専門的な研究への意欲が湧き、レスター大学大学院に進み、人類学と社会学を中心に研究しました。

帰国後、三菱総研に入社したのですが、5年後、突然、清宮克幸監督から「次の監督候補と考えている。検討してもらえないか」と連絡が入りました。降って湧いたような話で、とても迷いました。一応、社会人ラグビークラブの「タマリバクラブ」ヘッドコーチの肩書きはありましたが、このチームは同期の友人が集まって作ったもので、いわばお飾りのような立場です。私以外は全員が選手なので、試合中に交代の指示などを出す役が必要なため、大会のときに出向くだけで、指導などには一切関与していません。10年近くも本格的なラグビーからは離れていた人間に、はたして監督が務まるのだろうかと不安を覚えたのです。

それでも最終的に監督就任を決断したのは、使命感ですね。清宮監督のもとで隆盛を誇った後を受けるわけですから、それをプレッシャーに感じるようなタイプの監督なら、その人もチームも崩れてしまう。それではせっかく強くなった母校のためにならない。私なら打たれ強いし、プレッシャーをはねのけられると考えたのです。

困難に挑戦し、失敗を重ねるなかから、自分のスタイルが見つかる

・・河合塾で学ばれたことが、その後の人生に生きていると感じられることはありますか。

中竹 自分の考えがおよぶ範囲の世界に閉じこもっていてはいけない。まったく異なる経歴の人の話にも積極的に耳を傾け、刺激をもらうことが大切だということを、河合塾で学びました。単なる受験勉強に特化した予備校だったら、あんなに血が騒ぐような高揚感は味わえなかったでしょう。迫力あふれる講師の方との出会いと、縦横無尽に広がる話題を通して、柔軟な発想や、物事に立ち向かう勇気を得られた気がしています。その体験は現在の選手への指導方針にも反映されています。

ラグビーは、試合中に監督が細かな指示を出すことが不可能なスポーツです。それがラグビーの特色であり、魅力でもあります。ですから、選手たちに強調しているのは、自分たちで考えて、解決を図り、自分たちで勝てということです。選手自身によるチームづくりのために、毎年のチーム発足時に、各学年の代表約20名を集めて「リーダー合宿」を実施します。この合宿で、選手同士でディスカッションを重ね、1年間のビジョンを立案させるわけです。この際に、ラグビーの話ばかりしていても限界があります。ダイナミックな発想が沸き上がってこないのです。そこで私は、必ずラグビーとは門外漢のゲスト講師を招くようにしています。たとえば、昨年のスローガンは「ダイナミック・チャレンジ」でしたから、私が考える人生におけるダイナミック・チャレンジを果たしたビジネス界の方、弁護士会改革に挑戦した弁護士、世界的な活躍をしている他競技の方などを招きました。ラグビーとは異なる世界の話に触れることによって、柔軟な発想や、熱いマインドが獲得できる。それは河合塾での経験を通して、私が確信していることでもあります。

・・最後に、河合塾の後輩へのメッセージをお願いします。

中竹 最も大切なことは、自分のスタイルを見つけるということです。受験勉強においても、その後の人生においても、困難に直面したとき、自分のスタイルに立ち戻ることでしか解決の道はありません。そして、自分のスタイルを確立するためには、自分の弱点を把握することが重要です。失敗を重ね、自分の弱点がわかっていなければ、自分らしさは見えてこないものなのです。さらに言えば、失敗するためには、挑戦しなければならない。志望校は高く設定し、難しい問題にもあきらめずに粘り強く取り組む。常に自分に困難を課すことが、長い目で見ると、とても重要なことだと、私は思っています。

中竹 竜二

Profile

中竹 竜二 (Ryuji Nakatake)

1973年福岡県生まれ。福岡県立東筑高校卒業後、福岡大学に入学。同大学に通いながら、河合塾の講座を受講。1993年早稲田大学人間科学部に入学。ラグビー部に所属し、主将を務める。卒業後、イギリスに留学。レスター大学大学院社会学修士課程を修了。2001年、(株)三菱総合研究所に入社。2006年、同社を退社。株式会社三協フロンティアに入社し、早稲田大学ラグビー蹴球部監督として同部の指揮をとる。

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