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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.31 (2010年11月公開)

夢を語ることはけっして恥ずかしいことではない。
大リーグの球団で仕事をしたいという私の夢を
河合塾は真正面から受け止めてくれました。

北海道日本ハムファイターズ チームディレクター兼渉外担当
岩本 賢一さん

国際教育センター(現 海外大学交流学科)

北海道日本ハムファイターズ チームディレクター兼渉外担当 岩本 賢一さん

ケガで選手を断念し、トレーナーとして野球と関わり続けることを決意

・・海外留学を考えるようになったきっかけは何だったのでしょうか。

岩本 中学時代、硬式野球のリトルシニアリーグのチームに所属していたのですが、中学1年生の終わり頃、両膝を痛めて、医師から体育の授業に参加することすらも禁止されてしまいました。監督からは、プレーするだけが野球ではないと、マネージャーになることを勧められました。多感な時期ですから、辛い思いでいっぱいでしたが、選手としては無理でも、何らかの形で野球に関わり続けたい。そして、やるからには大リーグの球団で仕事をしてみたいという気持ちが生まれました。大きな希望を持つことで、自分を奮い立たせようとしていたのかもしれません。

高校は旭川北高校に進みました。当時、旭川市内の公立高校で最も甲子園出場の可能性のある高校だったからです。野球部に入り、選手として再トライしようとしたのですが、膝の状態は好転せず断念。改めて、裏方として野球に関わっていくことを決意しました。その頃には、いろいろと調べた結果、アスレティック・トレーナーに興味を持ち、その分野に力を注いでいるアメリカの大学に入学したいという目標も定まっていました。

とはいえ、膝にケガを抱え、体の弱い私のことを心配したのでしょう。当初、両親は大反対でした。そこで、現役の時は1校だけ日本の大学を受験。不合格だったら、河合塾の国際教育センター米大進学コースで勉強して、留学をめざすことにしました。最終的には両親も私の意思を尊重し、応援してくれました。

・・河合塾を選ばれたのは、どのような理由からですか。

岩本 まだインターネットが普及していない時代だったので、留学関連雑誌で情報を収集しました。少しずつ留学がブームのようになり始めた頃で、留学希望者対象の学校はたくさんあるのですが、ほとんどがバラ色の留学生活が待っているような甘い言葉が並んでいます。対して、河合塾の紹介ページには、留学はけっして簡単なことではない、相当な覚悟が必要になるといった雰囲気がありました。そこが逆に信用が置ける気がしたのです(笑)。

アメリカの大学で単位が認定されるほどレベルの高い授業

・・実際に学んでみて、河合塾の教育システムはいかがでしたか。

岩本 留学するためには、TOEFLの成績が一定以上をクリアしていることが要求されます。けれども、河合塾は、そのスコアを高めさえすればいいといった授業ではなく、総合的な英語力を養成する授業でした。その後、アメリカの大学に進学した時に、河合塾の授業が英語の単位として認定されたケースがあることからも、レベルの高さが証明されていると思います。

・・具体的にはどのような授業が展開されていたのですか。

岩本 一方通行の講義形式ではなく、全員参加の双方向型の授業が中心でした。授業中に意見を求められる機会が多く、当事者意識を持って臨む必要があります。いわばアメリカンスタイルの授業だったわけで、そうした形式で鍛えられていたため、アメリカの大学の授業にも早めに馴染むことができました。

・・TOEFLのスコアは順調に伸びていったのですか。

岩本 最初の頃は伸び悩んでいました。すると、先生方が放課後、マンツーマンで補習を行ってくださいました。その結果、520~530点にまでスコアを高めることができました。一人ひとりのレベルに応じて、きめ細かく対応してくださったことに感謝しています。

・・そのほか、河合塾で印象に残っていることはありますか。

岩本 河合塾は一人ひとりの主体性の涵養を大切にしていたと感じます。いずれは自分一人の力で船出していかないといけない。アメリカに行けば、外国人ばかりの中で、自分で仲間を作り、ハードな授業にもついていかなければならない。何よりも重要なのは、自分で判断し、道を切り拓く力である。そういう考えがあったのでしょう。志望校選びも、河合塾側であらかじめ路線をひくことは一切なく、自分で大学の教育内容を調べて、行きたい大学を決定し、出願も自分自身で行いました。もちろん、必要に応じてしっかりサポートはしてくださるのですが、最終決断は自分で行うべきという姿勢が徹底していたわけです。これは、実は、留学をめざす人にとっては重要なことでもあります。留学生活は甘いことばかりではありません。さまざまな障壁を乗り越えてでも頑張りたいという人が挑戦すべきです。安易に与えられたレールに乗って留学しても、壁を乗り越えるパワーは生まれないかもしれません。各自の主体性を大切にする素晴らしい指導方針だったと思います。

・・塾生同士の交流で思い出はありますか。

岩本 クラス内の結束力は強かったですね。しかも、アメリカで夢を叶えたいと、皆がとてもポジティブでした。青臭く感じられるかもしれませんが、自分はアメリカで勉強して、こんな仕事をやりたいということを、それぞれがあまり照れることなく語り合える雰囲気がありました。野球一辺倒だった私にとっては、自分の知らない多様な世界があることを知り、視野が広がったメリットも大きかったですね。

より専門的な学びを求めて、2年次にケンタッキー大学からオレゴン州立大学に編入

・・ケンタッキー大学を選ばれたのはどのような理由からですか。

岩本 希望するアスレティック・トレーナーの勉強ができること、それから、留学するのならなるべく日本語を使わない環境に身を置くために、日本人学生が少ないこと。その2つを条件として、いくつかの大学の資料を請求して調べ、エクササイズ・アンド・スポーツサイエンスのコースが設けられていたケンタッキー大学に入学しました。

ケンタッキー大学はスポーツの強豪校であり、華やかな大学スポーツの世界を満喫しました。ところが、留学後、他大学のカリキュラムを調べていくうちに、オレゴン州立大学に、アスレティック・トレーニングに特化したコースが設置されていることを知り、2年次に編入しました。ただし、同大学で3年次からその専門コースに入るためには、テストが課され、毎年10数名しか合格しません。不合格だったら、3年次で再度他大学に編入し直すことを覚悟の上で入学したのですが、そのコースの希望者対象の説明会に100名以上が詰めかけており、「これは大変なことになった」と焦りました。もっとも、専門コースに入る前の1年間の学びの中で、トレーナーの業務は、トレーニングルームの清掃など、意外に雑務が多いことがわかってきます。理想と現実にギャップを感じてドロップアウトする学生も出てくるため、最終的には50~60名程度が受験することになるのですが、それでも高倍率であることに変わりはありません。合格が決まった時にはさすがにほっとしました。

・・専門コースではどんな勉強をされるのですか。

岩本 きわめて実践的なカリキュラムであり、とくに4年次では1つのスポーツのチームを任されて、1年間行動を共にします。当然、私は野球チームが絶対的な希望ですから、教授に懇願し、半ばごり押しのような感じで(笑)、野球チームを担当することになりました。この1年間は、授業との両立がきわめてハードでした。朝5時に起床して、朝練に一緒に参加し、午前中授業を受け、午後は再び練習に参加。遠征にも帯同します。そして、夜遅くまで授業で出された課題に取り組みます。アメリカの大学は出席さえしていれば単位が与えられる授業は皆無で、容赦なく課題が出されます。慢性的な寝不足状態でしたね。

メッツの通訳などを経て、地元・北海道のプロ球団設立に関わる

・・卒業後は念願叶って大リーグの球団で仕事をされたのですね。

岩本 卒業間近になって、大リーグの各球団に、トレーナーのインターンとして雇用してくれるように打診しました。すると、ヒューストン・アストロズが2カ国語を話せるトレーナーを公募していることがわかり、さっそく応募しました。ところが、アストロズが求めていたのは、半数近くを占めるラテンアメリカの選手のために、スペイン語と英語が話せるトレーナーだったのです(笑)。門前払いだったのですが、その後も「雨露さえしのげて、1日1食もらえれば、無給でもいい」と、しつこく電話をかけ続けました。すると、決まっていたトレーナーが直前にキャンセルしたこともあって、3カ月限定で雇ってもらえることになったのです。卒業直後の6月から仕事を始めましたが、月給は500ドル。1日に1つ支給されるサンドイッチをかじり、夜は余ったサンドイッチをもらって空腹をしのぐ毎日でした。とはいえ、マイナーの選手は皆そんな生活です。けれども、まったく悲壮感はなく、いずれメジャーで大活躍する希望に燃えています。そんな選手たちの明るさに励まされた日々でもありました。

その後、アストロズで知り合いになったマイナーリーグの統括ディレクターが、ニューヨーク・メッツに移ることになり、私も通訳として勧誘されました。翌年、日本で初めて、高卒選手がメッツと契約することになっていたからです。その頃、単にトレーナーとしてだけでなく、もっと幅広い形でスタッフ部門の仕事に携わりたいという意欲が生まれていたことから、メッツに入団。その後、小宮山選手、新庄選手などの通訳を務めました。

・・日本ハム・ファイターズに入団された経緯を教えてください。

岩本 メッツで5年目のシーズンを迎えた頃、日本ハムが北海道で球団を誕生させるというニュースが飛び込んできました。地元・北海道にプロ球団ができるなんて、もう大興奮です。ぜひ何らかの形で関わりたいと熱望し、履歴書を送付しました。すると、ヒルマン氏が監督に就任する予定で、その通訳を探していたことから、入団が決まったのです。現在は、チームディレクターとして、選手とフロントの円滑なコミュニケーションに努めているほか、外国人選手との契約交渉なども担当しています。近年、北海道でのファイターズは本当に多くの方々から声援をいただいており、感慨深いものがありますね。

・・これまでの経歴の中で、河合塾で学ばれたことが生きていると感じられることはありますか。

岩本 今、夢を語ることや、夢に向かって一生懸命に頑張ることが恥ずかしいことのような風潮があるように思います。けれども、河合塾は私の夢を真正面から受け止めてくれました。将来、大リーグの球団で仕事をしたいという私の夢を、それは無理だから、もっと現実を見つめなさいといった指導をされていたら、やる気を失っていたでしょう。ぜひその夢を実現しよう。そのためにはアメリカでどんな勉強をすればいいのか、一緒に考えよう。河合塾の先生方のそんな温かい姿勢があったからこそ、今の私があるのです。

・・最後に、後輩たちに向けてのメッセージをお願いします。

岩本 私も留学を志した時は、アメリカへの憧れの気持ちだけでした。もちろん、留学をめざすうえではそれでいいとも思いますが、留学後に痛感したのは、自分は日本人であるということです。アメリカに留学してきている他国の学生たちは、いずれ自国を背負って立つという気概を持っている人も少なくありません。その意識に大いに刺激を受けました。自分は社会のために何ができるのか。もはや自分の損得勘定だけを考えて仕事をしていてはいけない。プロ野球にしても、自チームの利害だけでなく、野球界全体に目配りしていく必要があります。それが次世代の子どもたちへの責任でもあるのです。そうした日本の未来を考えようという意識は、留学を経験したからこそ得られたものであり、今後もその感覚を大切にして頑張っていきたいと考えています。

岩本 賢一

Profile

岩本 賢一 (Kenichi Iwamoto)

1972年北海道生まれ。旭川北高等学校卒業後、河合塾の国際教育センター(現・トライデント海外大学交流学科)に通う。1992年にケンタッキー大学に留学。アスレティックトレーニングについて学ぶ。その後、1994年にオレゴン州立大に編入。同大学卒業後、ヒューストン・アストロズやニューヨーク・メッツでトレーナー・通訳として活躍。2003年に北海道日本ハムファイターズに入団。2007年まで、ヒルマン監督の通訳を務める。現在、同球団のチームディレクター・渉外担当として活躍中。

国際教育センター(現 海外大学交流学科)

愛知県名古屋にあるトライデント 外国語・ホテル専門学校の海外大学交流学科は、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの海外大学に留学するプログラムを実施しています。

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