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カンボジア教育支援活動

カンボジアの歴史(近代史)

 インドシナ半島のほぼ中央部、メコン川の流域に栄えてきたアンコール王朝は、15世紀になるとタイの攻撃を受け、王都を移すなど、衰退を始めます。また、17世紀には隣国ベトナムが力をつけて、カンボジア国境を侵すようになり、さらに19世紀になるとフランスが、インドシナ半島へ勢力を伸ばしてくるようになりました。1863年、1884年の2度にわたる条約締結により、カンボジアはフランスの植民地となってしまいます。フランスはカンボジアの植民地支配を間接統治の形とし、ベトナム人の役人を使って支配しました。このときにベトナム人の役人が法外な税金を取り立てるなどして、カンボジア人民に辛くあたったため、これ以降カンボジア人はベトナム人に対して強い反感を持つようになります。

 1941年モニボン国王の死去により、ノロドム・シハヌークが王位につきます。1945年3月インドシナに進駐していた日本軍がクーデターの手段を使いフランスの支配を終わらせますが、日本の降伏によってフランスの支配が再開します。1953年11月9日、ようやくカンボジアの完全独立が達成され、シハヌークの独裁体制が始まります。シハヌーク独裁体制では、フランスの企業や中国の企業が都市部の経済を押さえて、農村部の経済は次第に疲弊をしてゆきました。1951年に結成されたカンボジア共産党のクメール・ベトミンが、反政府の勢力として拡大して行きます。クメール・ベトミンはベトナム共産党の指導で作られた組織です。1963年クメール・ベトミンのナンバー3であったポル・ポトは、親ベトナムの幹部たちをひそかに暗殺し、第3回党大会で書記長になり、共産党の実権をにぎります。1963年シハヌークはかつての国費留学生が共産主義に染まってしまったことに対して「クメール・ルージュ」(赤いクメール人)と呼んで非難をしました。

 ベトナム戦争が始まると、1960年に設立された南ベトナム解放戦線にシハヌークはカンボジア領を利用して南ベトナムへの攻撃をすることを秘密裏に認めます。このことによって、南ベトナム政府およびアメリカとの関係が悪化し、シハヌークは中国政府に近づき「友好不可侵条約」を締結、軍事援助をうけるようになります。

 しかしながら、中国と近づいた結果、1966年から始まった中国の文化大革命がカンボジアへ輸入されるようになり、クメール・ルージュは文化大革命を利用して「反シハヌーク」、「反王制」のキャンペーンを推し進めます。シハヌークはこれに怒り、クメール・ルージュを弾圧、クメール・ルージュの指導者たちは、ジャングルの解放区へと逃げ込みます。

 アメリカはベトナム戦争の早期終結のために、シハヌークの批判を強めていた共和党を支援し、1970年3月18日、ロンノル将軍によるクーデターを成功させます。外遊に出ていたシハヌークは帰る場所を失い、中国の周恩来首相の下に身を寄せます。中国はこの機会を逃さず、シハヌークとかつて敵であったクメール・ルージュとを和解させ、シハヌークを首班とする連合政権を設立させます。シハヌークは中国にあって、外交の代表となり、クメール・ルージュは、中国から武器援助を受けるようになります。

 アメリカの援助で政権を握ったロンノル政権は、アメリカの多大な援助を受け、政府内部や軍部では私服を肥やすことに夢中になり、役人の腐敗が広がっていきます。政府に対する国民の反感が広がるに連れて、クメール・ルージュの解放区は広がって行きました。

 1975年4月17日、北ベトナムの支援を受けてクメール・ルージュは、首都プノンペンを陥落しました。プノンペンに入ってきたクメール・ルージュを見て、プノンペン市民は大歓迎をします。しかし、歓迎はその日の夕方まででした。その日の夜には、クメール・ルージュの兵士が、プノンペンのすべての市民の家を訪れて、一人残らずその日のうちにプノンペンから強制退去をさせられました。市民はすべて農村部の強制集団キャンプへ送られ、プノンペンに残っていたロンノル政権の役人と軍人はすべて射殺されてしまいました。キリングフィールドの始まりです。ポル・ポトが政権を握った1975年4月から1979年1月までの間に殺されたり、飢餓や重労働で死亡した人数は、およそ300万人にのぼると言われています。ポル・ポト政権は、その成立直後から政権内部の抗争が始まっていました。ポル・ポトにより、反対派が粛清されてゆき、最後にはポル・ポトの血縁者だけが政権内に残るような形にまでなっていたのです。

 1978年5月には、東部軍区の反乱がおこります。この反乱は鎮圧されますが、東部軍区の第4師団長ヘン・サムリン、第20区党書記長チア・シム、軍区参謀長のフン・センらがベトナムに入り、ベトナム軍を先導してプノンペンへ進攻しました。ポル・ポトはプノンペンを放棄して逃げ去ります。1979年1月新政権が誕生し、フン・センが新首相になり、ヘン・サムリンがクメール人民革命党の書記長、チア・シムは国会議長になります。

 プノンペンに新政権が樹立されたものの、カンボジアの国内には4つの勢力が対立したまま残されていました。プノンペン政権、シハヌーク派、ソンサン派(クメール人民民族解放戦線)、クメール・ルージュの4つです。

 1990年6月に、紛争当事者による東京会議が行なわれ、先の4つのグループによる、「カンボジア最高国民評議会(SNC)」の設置を合意しました。1991年1月にはSNCの議長となったシハヌークが帰国し、1993年3月には日本人の明石康氏が代表を務める国連のUNTACがカンボジアで活動を開始し、初の選挙による国民議会を作ることに成功しました。

 国民議会の設立により、内戦続きだったカンボジアに平和が訪れた形になりました。

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