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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.9 (2009年1月公開)

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医師 李 権二さん

教養主義的な人間教育の文化が河合塾の特徴<br />それによって視野が大いに広がり<br />国際医療への目的意識が芽生えました

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    李 権二さん

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中村哲氏の著書に感動し、国際貢献への思いが喚起された

・・河合塾に通われたのはいつでしたか。

愛知県出身で、河合塾には小学校から高校まで通いました。私にとっては完全に生活の一部といった感覚でした。県下全域から生徒が集まっており、他校の友人も数多くできて、視野が広がったことも有意義でした。

最もインパクトが強かったのは、牧野剛先生の現代文の授業です。難解な評論文を噛み砕いて解説してくださる授業でしたが、学習した内容よりも印象に残っているのが、時々脱線して展開される政治、経済、文化に関するうんちくです。一般的に予備校は「点数至上主義」で、解法テクニックの伝授に専念し、雑談は極力避ける傾向があると思います。けれども河合塾では、牧野先生に限らず、そうした授業方法とは一線を画す授業が行われていました。大学合格は決してゴールではない。長い人生設計の中で、大学入学後も、さらには社会人になってからも、常に自らを高める学びを続けることができる人間を育てたい。そんな教養主義的な人間教育の文化が根づいていたように感じます。

そうした文化の下で過ごしたことは、私にとっては、学びのモチベーションを維持するうえで大いに役立ちました。医学部志望者の中には、医師の仕事と直接関係ないからと、文系科目の勉強に意義を見出せない人もいるようです。けれども私は、受験生時代から、将来は国際医療の道に進みたいと考えていましたから、英語はもちろん、相手の立場を理解するために世界史や地理、公民の授業も大切だと考え、文系科目をおろそかにすることはありませんでした。入試のためだけの勉強ではなく、自分の将来のためという意識があれば、自然とやる気も生まれるものです。

・・医学部をめざそうと思われたきっかけは何ですか。

高校3年の時に、河合ブックレットの『ペシャワールからの報告』を読んだことが契機になりました。アフガニスタン難民の医療援助で活躍する中村哲氏の著書で、貧しい人たちのために全人的な貢献を果たしている姿に感動し、自分もそんな医師をめざしたいという意欲が芽生えたのです。小田実氏の『何でも見てやろう』(講談社文庫)も愛読書の1つで、次第に世界への視点が開かれていきました。

それからは英語の勉強にも、さらに熱が入るようになりました。私の英語学習の原点は、同じく河合ブックレットの小田実著『小田実の英語50歩100歩』で、繰り返し熟読しました。それまで学校で受けていた授業では、英米人と同じように発音に習熟することに重きが置かれていました。対して、小田氏の主張は、きれいな発音の英語である必要はない。「ジャパニーズ・イングリッシュ」でいいではないか。仕事や、生活するうえで実際に使える英語にすることの方が重要なのだということでした。目からうろこが落ちたような思いがしました。その後はいかに「自前の英語力」を身につけるかに力を注ぐようになりましたし、発想をそのように転換した頃から、英語の成績も少しずつアップしていきました。

熱帯医療研究会の活動や留学を通して、国際医療に必要な知識を吸収

・・大学入学後も、国際医療への思いは続いたのですか。

ええ。2年の浪人期間を経て、岐阜大学医学部入学後、すぐに「熱帯医療研究会」というサークルに所属しました。熱帯地域には、未だにマラリア、腸チフスなどの感染症が蔓延しています。けれども、日本ではほぼ制圧された疾患であるため、大学で学ぶ機会がほとんどありません。将来、国際医療に携わるためには、自主的に知識を修得する必要があると考え、このサークルに入りました。全国の医学部に同様の研究会が組織されており、さまざまな情報交換ができたことも大きなメリットでした。

また、在学中に2回、タイのチェンマイ大学に短期留学もしました。大学1年の時は寄生虫、大学5年の時は当時急増していたエイズを中心に研究しました。また、最近まで東京大学医科学研究所でエイズの研究をしていました。そのほか、在学中に、アメリカ合衆国公益法人「医学教育と文化研修プログラム」でネブラスカに渡航。医学教育振興財団「英国医科大学での臨床実習のための短期留学」でサウザンプトン大学に留学。加えて、笹川記念保健協力財団「第3回国際保健協力フィールドワークフェローショップ」に参加し、フィリピンのWHOで研修を行いました。

さらに、英語の勉強もコツコツと続けていました。ラジオの『基礎英語』講座を聴いたり、英会話学校に通ったり……。周囲の学生たちがあまり英語の勉強に熱心でない中で、勉強し続けるのはつらい面もありましたが、国際医療という目標があったから頑張れたと思っています。

・・大学卒業後の活動状況を教えてください。

すぐに国際医療に従事するのは困難ですから、まずは医師としての専門性を高めたいと考え、東京大学病院で小児科医の研修を積み、次いで千葉の総合病院に勤務し、小児科専門医の資格も取得しました。その間、バングラデシュ国際下痢性疾病研究センター、トマス・ジェファーソン大学、フィラデルフィア子ども病院でも研修を経験しています。

・・国際協力機構(JICA)から医療チームとして派遣されたのは?

2004年、スマトラ沖地震・インド洋津波の時と、パキスタン大地震発生時に、それぞれの被災地に、国際緊急援助隊医療チームの一員として派遣されました。

2008年には、医学生の時に参加した国際保健協力フィールドワークフェローショップにおいて、指導専門家として医学生を引率する機会をいただきました。今後もさまざまな立場で国際医療貢献を果たしていきたいと考えています。

恵まれない人々の心の痛みがわかる医師になってほしい

・・医学部をめざす受験生に対して、アドバイスをお願いします。

私が尊敬するバングラデシュ人のスマナ・バルア医師から、次のような言葉を言われたことがあります。日本の国際貢献は「かきくけこ」の「かきく」が中心だ。これからは「けこ」を大切にしてほしいと。「か」は金、「き」は機械、「く」は車、「け」は健康、「こ」は子どもに向ける眼差しや心を意味しています。つまり、バルア医師は「物」よりも「心」が大切だということを言いたかったのだと思います。国際医療、国際貢献のあるべき方向性を示唆する言葉であり、真摯に受け止める必要があるでしょう。

そして、この言葉は、医師をめざす際の心構えにも通じるところがあると、私は思っています。医師になれば、高い給料を得られ、便利な機器を駆使して、高級車を乗り回す生活ができる。そんな気持ちで医師をめざしてほしくありません。自分がいい思いをすることよりも、多くの恵まれない人の役に立ちたい。そういう心を持った医師をめざしてほしいと願っています。

・・最後に、保護者の方々に向けてのメッセージもお願いします。

多少景気が低迷しているとはいえ、現代は保護者も子どもたちも、経済的に恵まれた世代と言えるでしょう。だからこそ、戦後の貧しい時期を過ごした祖父母世代の生の声を伝える機会を、ぜひ与えてほしいと思います。私自身、在日韓国人三世で、父がビジネスでそれなりに成功していましたから、経済的に困ったことはありませんが、祖父母が苦労した話はたびたび聞いて育ちました。その経験が、医師になった今、患者さんの気持ちをくみ取るうえで、とてもプラスになっていると確信しています。

・・特に小学生時代には、その経験が大切になるということでしょうか。

そう思います。核家族化が進み、なかなか祖父母の話を聞くことは少ないでしょうが、努めてその機会を設けるようにすることが大切です。いたずらに知識の詰め込みに走るよりも、その方がはるかに有意義です。今の日本は恵まれているけれども、過去には貧困にあえいでいた時代があった。現在でも、世界の中には、近くに医師がいないのが当たり前の国も少なくない。そういう地域の人々の痛みに想像力を働かせ、少しでも貢献しようと考えられる人になってほしいですね。

Profile

李 権二 (Kuoni I)

李 権二(Kuoni I)

1972年愛知県生まれ。小学校から高校まで河合塾に通う。名古屋大学教育学部附属高等学校を卒業し、岐阜大学医学部に進学。医学部在学中、アメリカ合衆国公益法人医学教育と文化研修プログラムでネブラスカに渡航するなど海外での研修に数多く参加。卒業後も、小児科医として勤務する傍ら、バングラデシュ国際下痢性疾病研究センター、トマス・ジェファーソン大学、フィラデルフィア子ども病院など、海外での研修を経験。2004年、スマトラ沖地震・インド洋津波やパキスタン大地震の被災地へ国際緊急援助隊医療チームとして派遣された。現在、小児科専門医として小児医療や医学教育、そして国際医療の分野に幅広い実績を残している。在日韓国人三世。

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