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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.15 (2009年7月公開)

  • マスコミ・出版
  • 専門学校トライデント
北海道放送アナウンサー 加藤 雅章さん

合格のための対策学習だけでなく<br />入学後に役立つ教養的な授業も豊富で<br />アメリカの大学にスムーズに溶け込めた

  • 北海道放送株式会社
    アナウンサー

    加藤 雅章さん

    出身コース
    国際教育センター(現 海外大学交流学科)

留学の覚悟が固まった入学直後の1泊2日の合宿

・・留学をめざそうと考えられたきっかけは何ですか。

現役生の時は日本の大学を受験したのですが、すべて不合格でした。これから1年間どうするのか、家族会議が行われ、父から「アメリカの大学に行くのも1つの選択肢だ」と助言されました。高校時代の親友が現役合格しており、1年浪人して入学すると、後輩になってしまう。それは悔しい(笑)。ならば、留学の道を選択するのもいい方法ではないかと考えたのです。

そこで、留学情報誌でいくつかの予備校を調べ、河合塾国際教育センター(現・海外大学交流学科)に入り、約8カ月間学びました。

・・国際教育センター時代で最も印象に残っていることは何ですか。

入学直後に1泊2日の合宿が行われ、すべて英語だけの2日間を送りました。高校時代、ニュージーランドからの交換留学生が自宅近くにホームステイしていて、一緒に高校まで通学していましたし、紙粘土人形の講師をしている母の教室にアメリカ人が習いに来ていたりと、異文化の人と会話する機会に恵まれていたとは思いますが、いきなり英語だけで会話するという2日間は戸惑いの連続でした。けれども、海外での生活はこれまでの日本の生活とはまったく異なります。そんな世界に飛び込んでいくのだという覚悟を、早めに固めさせるための合宿だったのだと思います。

この合宿では、4クラスに分かれ、英語劇を上演する課題がありました。私のクラスに与えられたシナリオは『ピノキオ』で、私は主人公のピノキオの役に立候補しました。それなりに張り切っていたのでしょうね。今でもその劇で演じている恥ずかしい写真が残っています(笑)。

・・国際教育センターでは、どんな授業が行われていたのですか。

大きく分けて、2つのタイプの授業が柱になっていました。1つは、留学するための条件となるTOEFL対策の授業です。アメリカの大学に入学するには、TOEFL500点以上が目安になります。当初の私のスコアは450点程度でしたが、ネイティブの先生方による実践的な指導のおかげで、最終的には550点位にまで引き上げることができました。

もう1つは、心理学など、一般教養系の授業です。もちろん、すべて英語で行われます。後からわかったことですが、アメリカの大学で行われている授業の模擬的な内容でした。大学入学後、国際教育センターでこんな授業を受講していたと報告したところ、一部の科目について単位が認定されたことからも、そのレベルの高さがうかがえると思います。事前にそうした授業を体験していたことで、アメリカの大学の授業にもスムーズに溶け込むことができました。合格のための対策学習だけでなく、入学後に役立つような授業も設けようとするところが、河合塾の素晴らしい姿勢だと思います。

事前に候補校を見学した上で、留学先を選定

・・オハイオ州のボウリング・グリーン州立大学に留学されたわけですが、この大学を選んだ理由は何でしょうか。

高校時代から、アナウンサーになると周りに宣言していました。それほど深い理由はなく、有名になりたいという軽い気持ちだったのですが……(笑)。そこで、マスメディア関連の勉強ができる大学を調べました。アメリカには約3000もの大学があるので、選ぶのも大変です。国際教育センターに用意されていた全米の大学の様々な評価が掲載されている分厚い冊子で情報を収集するとともに、先生方にもアドバイスをいただき、数校に絞りました。その上で、実際に出願する前に、先生方に引率されてアメリカに出向き、各自で志望校を見学しました。ボウリング・グリーン州立大学はキャンパスの雰囲気がとても気に入ったことと、独自の放送局を有していたことが決め手になりました。

・・希望通り、同大学でアナウンサーに向けての勉強に取り組んだのですか。

入学直後はメジャー(主専攻)としてマスメディアを選択しました。ところが、1セメスターが終了した頃、迷いが生じました。マスメディアそのものの勉強がアナウンサーの仕事に直結するわけではない。本来、大学とは学ぶ場であり、自分が本当に学びたいものを学ぶべきではと考えたからです。そこでその後、リベラルスタディース専攻に変更しました。広く浅く学べる教養系のコースで、心理学、社会学、天文学、気象学、体育など、多様な分野の科目を履修しました。

アメリカの大学は、宿題は多いし、レポートは課されるし、授業によっては予習で相当量の文章を読む必要もあり、毎日が必死でした。けれども、その経験を通して、言葉への執着心、感性が養われ、現在の仕事にもプラスになっていると思います。とくに、日本の起承転結型の文章とは異なり、アメリカではレポートを書く際に、冒頭に結論を述べることが要求されます。コンパクトに要点を伝える力が求められるアナウンサーの仕事にも通じるところがあるように感じています。

地域の視点を大切にした報道を心がけたい

・・帰国後、北海道放送のアナウンサーになったわけですが、難関の採用試験を突破できたのは、どのような点が評価されたと考えていますか。

北海道放送の採用試験では、「天気予報」「地震発生の速報ニュース」の2つの原稿読みが課されました。私は昔から地学が好きで、アメリカの大学でも地学を学んでおり、「得意分野」だったため、余裕を持って臨むことができました。面接でも、担当官から「アメリカと日本では、天気予報にどのような違いがあるか」と質問されましたが、きちんと答えることができ、運がよかったと思っています。また、面接では、その場に地図や野菜のおもちゃなどが置かれていて、それを使ってフリートークするという試験もありました。私はキュウリのおもちゃを手にとり、「日本ではキュウリは細いものと思われているが、それが世界の常識ではない。アメリカでは太いキュウリが売られている」という話をしました。私は、アメリカの大学で、自分の常識は必ずしも世界の常識ではないということを学んだと考えており、それを体現できたことも評価の対象になった気がします。

・・これまでどのような番組を担当されてきたのですか。

北海道放送はテレビとラジオの兼営局で、入社2年目から約2年半、ラジオの若者向け音楽番組を担当しました。ビッグスターの生の歌を目の前で聞けることもあったほか、リスナーからのハガキやFAXを読むのも楽しみでした。その後は、テレビの早朝番組を約4年、ラジオで有識者によるニュース解説番組を約4年間担当し、今年春からは『総力報道!THE NEWS』の北海道地区のキャスターを務めています。日本のテレビ局の報道はどこでも似たような論調と批判もされますが、何とか違う面を出せないかと日々苦心しています。たとえば、国際ニュースでは、単に事実を伝えるだけでなく、北海道にどのように影響するのかという視点を大切にしたい。それによって、視聴者に考えるヒントを提示することができれば最高ですね。

若者の可能性は無限大に開かれている

・・国際教育センターで学ばれたことが、その後の人生に生きていると感じられることはありますか。

現在の私があるのも、アメリカへの留学が基盤になっており、その道筋を作ってくれたことにとても感謝しています。

それから、国際交流センターでの友人との出会いも大きな財産になっています。その友人は以前、日本ハムのヒルマン監督の通訳を務めていた岩本賢一さんです。出会った当日から徹夜で語り明かしたほど気の合う仲間で、彼の努力する姿勢は私にとっていいお手本になり、勉強のモチベーションを高めることができました。留学後もよく連絡を取り合い、当時、アスレチックトレーナー志望だった彼が、その夢を実現するために、大学のフットボールチームなどに帯同して全米各地を回っている行動力にも刺激を受けました。また、留学前に、北海道出身の彼の実家を訪れ、札幌の街が気に入ったことも、北海道放送の採用試験を受けるきっかけになりました。

・・最後に、後輩たち、およびその保護者に向けてメッセージをお願いします。

自分の可能性に壁を作らないことが大切だと思います。私も現役生の時はすべて不合格になり、それなりに落ち込みましたが、アメリカの大学に進んだことで世界が大きく開けました。若者にとって可能性は無限大だと言いたいですね。

また、保護者の方々には、自らの経験値を生かして、お子さんにできるだけ幅広い選択肢を示してあげてほしいと思います。そして、それぞれの選択肢のメリット、デメリットを踏まえつつ、お子さんと一緒に考える姿勢を持つことが大切なのではないでしょうか。

Profile

加藤 雅章 (Masaaki Kato)

加藤 雅章(Masaaki Kato)

1972年千葉県生まれ。1991年に県立長生高校を卒業後、8ヶ月間河合塾国際教育センター(現:海外大学交流学科)に通う。1992年1月米国オハイオ州ボウリング・グリーン州立大学に留学。帰国後、1996年北海道放送にアナウンサーとして入社。ラジオの音楽番組やテレビ情報番組などを経て、現在は『総力報道!THE NEWS』の北海道地区MCとして活躍中。

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