「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.27 (2010年7月公開)
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常識に縛られず自分なりの方法を<br />見つける努力をしてほしい。<br />それこそが社会でも求められることなのです。
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株式会社ドリマックス・テレビジョン
プロデューサー/ディレクター三城 真一さん
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壮大な歴史観が語られる刺激的な世界史の授業
・・高校時代の思い出から聞かせてください。
バスケットボール部に所属し、練習に明け暮れる日々でした。私の母校(開成高校)の生徒は、意外にのんびりしており、高校3年生の1年間だけ頑張れば何とかなるだろう。それまでは学校行事にも積極的に参加して、高校生活を謳歌しようといった雰囲気がありました。私も、本格的な受験勉強をスタートさせたのは、高3の大会が終わった6月頃からです。その後はそれなりに一生懸命勉強し、模試の成績では第一志望の東大文三の合格圏内に入っていたので、東大1校に絞って受験しました。けれども、そんな短期間では、全分野を網羅するのは困難です。苦手分野が出題された場合は、不合格になる可能性もあると覚悟していました。実際、入試本番では、数学で苦手な行列の問題に失敗したことが響き、浪人することになりました。
・・浪人生のとき、河合塾を選ばれた理由は何ですか。
部活動をやっていた関係で、高校時代、塾や予備校には通っていなかったのですが、河合塾の夏期講習、冬期講習だけは受講しました。そのとき、先生方の授業をとても興味深く感じたことが理由ですね。
・・実際に通い始めて、河合塾の印象はいかがでしたか。
授業は高校までとは一味異なる内容で、期待通りでした。たとえば、英作文の授業は、イギリス生活経験の豊富な先生が担当されており、文法通りの杓子定規な表現ではなく、ちょっとくだけた英語らしい表現を教えてもらうことができました。その文章表現の背景にあるブリティッシュマインド、つまり文化や精神性を踏まえた講義を聞くのが楽しみでした。
世界史の授業も刺激的でした。高校の世界史の授業では、意図的に思想性が排除されているようなところがありますが、現実には、歴史とは思想史の側面が強いと、私は思います。それまで、世界史の勉強というと、知識の暗記が中心で、いまひとつおもしろく感じられなかったのですが、河合塾の授業を受講してから一変しました。現象の因果関係を押さえつつ、思想の対立が語られ、さらにはその現象が世界史全体の中でどうカテゴライズされるのか、壮大な歴史観が語られていきます。そうした授業展開が新鮮に感じられたのです。
目標を共有できる仲間に恵まれた
・・そのほか、河合塾時代で印象に残っていることはありますか。
クラスごとにまとまりがあり、良い人間関係を築くことができました。高校の雰囲気に近い感じですが、大きな違いは、目標を共有できる仲間だけの集団だということです。全員、大学合格という目標が第一義であり、目標達成のために何をすべきかを常に考え続けていました。お互いに意識を高め、一緒に頑張ろうという雰囲気の中で浪人生活をおくることができたため、勉強への集中力も高まり、目標もぶれることがなかったわけです。
今振り返ると、河合塾ではクラス内の団結力をとても重視していたように感じます。それが受験勉強を乗り切るパワーにつながると考えていたのでしょう。最初の模試が終了した頃、さっそくクラス対抗の運動会があり、私のクラスではそろいのTシャツを作って臨み、一気に仲間意識が強まりました。喫茶店などで仲間と話し込むこともよくありましたが、そんなとき、芸能界やファッションの話題ではなく、難問の解き方や、ユニークな勉強方法などで盛り上がっていたのが、予備校生らしいところです(笑)。当時の仲間とは、現在でも年1回は親睦会を開いており、交流が続いています。
・・成績は順調に伸びていったのですか。
模試が終わるたびに、チューターから、今後どんな対策を立てる必要があるのか、きめ細かく指導していただいたこともあって、比較的順調だったと思います。最終的に東大文一、東京外国語大ロシア語学科、早稲田大政経・一文、慶應義塾大経済を受験し、すべて合格することができました。
ちなみに、文三から文一に志望変更したのは、その方が将来の選択肢が広がると考えたからです。また、東京外国語大ロシア語学科を受験したのは、当時、デザイナーのジャン=ポール・ゴルティエがキリル文字をデザインした服のシリーズを発表しており、興味を持ったことがきっかけです。そのため、河合塾に通っていた頃から、NHKのロシア語講座を見て、独学で勉強していました。
河合塾時代の友人の影響でアメリカンフットボール部に所属
・・大学で特に力を入れたことは何ですか。
アメリカンフットボール部に所属し、ワイドレシーバーを務め、2年生のとき、1部リーグに昇格することができました。アメフトが好きになったのは、河合塾時代の経験が関係しています。その頃、アメフトは旬のスポーツで、ジョー・モンタナなど、スター選手が数多く輩出。テレビのゴールデンタイムに放映されることもあったほどです。河合塾の中にも、アメフトが大好きなクラスメートがいて、昼休みにキャッチボールを楽しんでいました。その影響で、同じクラスの中から、東大は3名、京大では2名がアメフト部に所属していました。
・・どのようなところにアメフトの魅力を感じたのですか。
多くのスポーツは「個の力」が絶対的な武器であり、個々の力量差が大きければ、それを埋めるのは不可能な面があります。けれども、アメフトは戦略の立て方次第で、一人ひとりの能力差を超えて、勝負に持ち込むことができます。そこが魅力的でした。
私にとっては「金八先生」がスーパーヒーローだった
・・マスコミの世界に興味を持つようになったきっかけは何でしょうか。
小学校高学年の頃に、「3年B組金八先生」に出会いました。子ども心に、大人の視点だけで描かれたドラマではなく、子どもの気持ちもきちんと表現されているところに惹かれていたのです。私にとっては、金八先生がスーパーヒーローであり、将来は学校の先生、あるいはこういうドラマを制作する人になりたいという夢が膨らんでいきました。
そこで、大学4年生の時に、いくつかのテレビ局の採用試験を受けました。バブル真っ盛りの時代で、売り手市場の状況でしたから、仮に不合格になっても、銀行に入社できるはずだと、あまりプレッシャーを感じることはありませんでした。幸い、ドラマ制作に定評のある第一志望のTBSに入社することができました。
・・入社後は主にどのような仕事に携わってこられたのですか。
2年間、バラエティー番組のADを経験した後、念願のドラマ制作現場でディレクター、プロデューサー業務に従事しました。最も感動したのは、約10年ぶりに「金八先生」のシリーズが復活することになり、ADとして参加することができたことです。
・・2007年に現在の制作会社に出向されたわけですね。
その少し前から、編成部に籍を置き、TBS全体の番組表案を作成する立場に就きました。テレビ業界全体の流れが把握できるようになって気づいたことは、テレビがメディアの覇者であった時代は終わろうとしているのではないかということです。今後はテレビからインターネットを通じた動画配信に転換していくのではないか。当時はまだネット配信はビジネスとして確立されていませんでしたが、ポストテレビ時代のモデル作りに携わってみたい。そういう思いが強まっていったのです。それに挑戦するためには、制約が少ない制作会社の方が自由に動けると考え、ドリマックステレビジョンへの出向を希望しました。
・・これまでに、インターネットを活用した試みとしては、どのような挑戦をされていますか。
TBSの編成部時代に、V6の森田剛、三宅健、岡田准一らが出演したドラマ「PU-PU-PU」で、実験的にBBS(電子掲示板)を取り入れました。おそらくこれがテレビ番組でBBSを導入した最初の試みだったと思います。当時、インターネットはビジネス的に成立しないと言われており、BBSをその後も続けていくことに否定的な空気もあったのですが、志ある社内の先輩方が金銭面でもフォローしてくれたおかげで、何とか続けることができ、「魔女の条件」というドラマのときに、大変なアクセス数を記録し、世間の認知を得るようになり、現在の隆盛につながるようになりました。
ドリマックステレビジョン出向後は、みなと銀行のWEBドラマ制作、仲間由紀恵主演のドラマ「ジョシデカ!女子刑事」のウェビソードの制作などに携わっています。ウェビソードとは、本編の番外編ドラマをネット配信し、両方を楽しんでもらおうという趣向です。アメリカで大流行しており、アメリカドラマが復活した最大の要因といわれています。まだ端緒についたばかりですが、今後もネット配信の可能性に賭けていきたいと考えています。
・・昨年10月に、初の監督作品「引き出しの中のラブレター」(常盤貴子主演)も公開されました。
おかげさまで好評で、上海万博の期間中に開催された「2010上海・日本映画週間」で、招待作品として上映されました。中国はこれからの巨大なマーケットとして注目しており、今後も交流を深めていきたいと思っています。
壁にぶつかったら常識に縛られないことが大切
・・これまでの経歴の中で、河合塾で学んだことが生きていると感じられることはありますか。
先ほど申し上げたように、歴史観そのものを教える世界史の授業を通して、社会を見つめる視点が養われたことが大きかったと思います。それから、高校までの私の勉強法は、教科書や参考書に記載されている知識を力任せに吸収するスタイルでしたが、河合塾に通うようになってから、能動的な学びというか、自分なりに工夫して勉強するようになりました。スポーツに例えれば、100mを何本も走って、とにかく脚力を鍛えようとするのが、高校までの勉強です。けれども、その方法には限界があります。どうすればより速く走れるようになるか、自分で考えて、さまざまなメソッドを活用する必要があるのです。単に知識を獲得して処理する力を高めるのではなく、自分で問題解決を図る力への転換と言い換えてもいいでしょう。その力は、社会人になってからも求められる重要なものだと感じています。
・・最後に、後輩へのメッセージをお願いします。
おそらく受験勉強を続けている間には、誰でも壁にぶつかることがあるでしょう。そのときに大切なのは、常識に縛られないことです。誰でもやっているような常識的な方法で打破しようとしても、それがすべての人に通用するとは限りません。試行錯誤を繰り返し、自分だけの方法を見つけなければ、壁を乗り越えることはできないのです。自分で考えた方法ならば、他人に責任転嫁することもないでしょう。そういう強い気持ちで頑張ってほしいと願っています。
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三城 真一(Shinichi Mishiro)
1968年東京都生まれ。開成高校卒業後、河合塾駒場校 大学受験科に通う。1988年東京大学文科一類に合格。同大学法学部を卒業後、1992年株式会社東京放送に入社。ドラマ制作のディレクター・プロデューサー業務に携わる。代表作に「3年B組金八先生」。2007年4月に株式会社ドリマックス・テレビジョンに出向。動画配信におけるドラマ的映像コンテンツの製作のほか、映画のプロデュース、監督も務める。監督作品「引き出しの中のラブレター」は、「2010上海・日本映画週間」で、招待作品として上映された。
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