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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.70 (2014年3月10日公開)

  • デザイン・アート関連
  • 河合塾美術研究所
プロダクトデザイナー 鈴木 啓太さん

デザインの世界に「正解」はありません。<br />自分なりの表現を追求し続けることでしか<br />「作家性」は育たないという教えによって<br />クリエイターとしての「覚悟」を固めることができました。

  • PRODUCT DESIGN CENTER
    プロダクトデザイナー

    鈴木 啓太さん

    出身コース
    河合塾美術研究所

中学生時代からデザインや作り方だけでなく、背景のストーリーにも興味を抱く

・・アートの世界に興味を持つようになったきっかけは何ですか。

小さい頃から工作が大好きでした。その1つのきっかけになったのが、小学生から中学生までボーイスカウトに入っていたことです。ボーイスカウトでは、キャンプをする際に、ナイフを1本渡されて、小枝などを削って必要なものを作ります。この経験を通して、限られた道具を使って、身の回りのさまざまな材料を組み合わせて、ものを作る楽しさに目覚めた気がします。

・・感性を育む上で、ご両親の教育が影響している面はありますか。

両親は国語と英語の教員で、いわゆる文系の家系ですから、とりたててアートの世界に触れさせようという意識はなかったと思います。子どもの頃からよくいわれていたのは、とにかく本をたくさん読みなさいということだけです。そのため、小学生の頃には、けっこう難しい本を読んでいました。内容がきちんと理解できていたわけではないのですが(笑)、本を読むのは苦になりませんでした。

・・中学、高校時代も、もの作りへの興味は続いたのですか。

ええ。中学生の頃から、家具のデザインに興味が生まれ、自分の部屋をかっこよくすることに熱中していました。お金はないので、インテリアの専門書を読んで、それを参考にしながら、生活雑貨を作って色を塗ったり、自分で描いた図柄をコピー機で拡大して壁などに貼り付けたりしていました。とくに興味を持ったのが椅子です。デザイナーが作る椅子は、日常よく目にする椅子とはまったく異なり、ユニークな形状をしています。そのデザインの面白さに魅力を感じたのです。ただし、私が興味を抱いたのは、デザインや作り方だけではありません。なぜそんな椅子が誕生したのか、あるいはそのデザイナーがどんなきっかけでこの形を発想したのかといった背景のストーリーを、本を読んで調べるのが大好きでした。そのあたりは文系の家系のDNAなのかもしれません(笑)。

デザインを単なる「趣味」ではなく「将来の仕事」として意識

・・河合塾に通うようになったきっかけを教えてください。

高校に入学した頃には、美大に行きたいという志望を固めていました。けれども、両親は猛反対でした。「デザインを勉強しても、それで将来食べていけるはずがない。そんな特殊な世界ではなく、もっと堅実な人生設計を考えて、国公立大学のできれば教育学部に進んでほしい。教育学部にも美術専攻が設けられているから、そこで学べばいいではないか」と、何度も諭されました。そこで私は、「とりあえず河合塾の芸大コースに通わせてほしい。腕試しをして、自分に実力がないようだったらあきらめるから」と説得しました。結局、両親が折れて、高校2年生の夏から、河合塾名古屋校芸大コースの「日曜専科」に入ることになり、毎週日曜日、自宅の豊橋から2時間以上かけて通いました。高校3年生の夏からは「デザイン・工芸専科」に移り、毎日、高校の授業を終えてから通っていました。高校卒業後の1年間も含めて、トータル2年半お世話になりました。

・・河合塾を選んだ理由は何ですか。

実は、それ以前に、地元の小規模な画塾に通っていた時期があります。けれども、河合塾が毎年出している「参作集」(芸大コース在籍者の作品集)を見ると、どの作品も驚くほどのレベルで、このままではこの域に到達することはできない。高いレベルの作品を生み出すライバルがたくさんいる環境で学んで、刺激を受ける必要があると感じたのです。

・・河合塾に通うようになって、どのような印象を受けましたか。

入ってすぐに夏期講習がありました。100人近くの生徒が一堂に会して、与えられた課題でひたすら絵を描き続けていきます。それまでの私は、美術、デザインが好きといっても「趣味レベル」の話でした。誰かと競うためではなく、単に自分が好きだから描いていたという感じだったのです。それでも高校の友人たちと比べると、はるかにレベルは上で、自信を持っていました。けれども、名古屋校の芸大コースには、中部地区全域から同じように絵が得意な生徒が集結してきています。しかも、何年も通っている生徒も少なくありません。自分よりも上手な人がたくさんいるという環境に、初めて出会ったわけです。圧倒されて、ときには挫折感も味わいましたが、同時に喜びの感情もわいてきました。将来、この世界で生きていくためには、こんなレベルの高いライバルたちと競い合っていかなければなりません。それもまた楽しいことだと感じたのです。ハイレベルな仲間と競う環境に身を置いたことで、それまでの単なる「趣味レベル」だったデザインへの興味から脱却して、ライバルよりも優れた作品を生み出して、デザインの世界を生き抜いていこうという「覚悟」が生まれた気がします。

アートの世界では答は「聞く」ものではなく「探す」もの

・・講師の指導で印象に残っていることはありますか。

美術やデザインの世界に正解はありません。他の教科のように、知識や解法を習得すれば満点がとれる世界ではなく、与えられた課題に対して、自分なりに解決していく力が問われます。正解があれば、皆、同じような作品になってしまうわけで、それでは通用しませんから、当たり前の話です。けれども、高校生の私にはまだそんな意識は希薄で、描き方に悩むとすぐに、先生に「どう描けばいいか」「どんな色を塗ったらいいか」と質問していました。そんな私に、先生は「芸術の世界では、答は『聞く』ものではなく、『探す』ものだ」と指導してくださいました。「自分なりの表現を突き詰めて考え続けなさい。それでうまくいくこともあれば、失敗することもあるだろう。それでも、そうした経験を積み重ねていくことでしか、『作家性』は育たないし、表現の成熟も生まれない」と教えられました。これは、デザインの世界で仕事をするようになった現在でも通用する、貴重な教えだったと思います。

・・大学入学前から「作家性」を要求されるような世界なのですね。

大学は「実践」の場であり、事前に「基礎」を身につけてから入学してきなさいというのが、芸術系学部の基本的なスタンスです。しかも、その基礎とは、単純に上手にデッサンできるといったレベルではありません。自分なりの個性的な表現力が要求されるのです。

・・入試で役立った授業はありますか。

私が入学した多摩美術大学では、「アイデア」というユニークな入試科目がありました。入試当日は、吸盤を配布されて、それを使って新しいデザインを考えるという課題が出されました。斬新な発想力と、それを具体的な形にしていくデザインの両方が試される入試科目です。河合塾では、たとえばバネを渡されて自由にものを作るなど、同じような課題が与えられる授業があり、トレーニングを積んでいたことが役立ちました。それ以外にも、すでにプロダクトデザインを志向していた私は、様々な製品の成り立ちや、社会においてどのように機能しているのかなどを、図書館で調べる勉強をしていました。それも発想力を高める訓練になったと思います。

・・そのほか、河合塾時代の思い出をお聞かせください。

同じ志を持つ仲間ができたことがよかったですね。芸大コースは、それぞれの高校の「はみ出し者」の集まりのような側面があって(笑)、皆、高校の同級生たちと話が合わず、悶々とした思いを抱えて入ってきます。私は普通科高校でしたからなおさらで、担任の先生も同級生も「美大イコール画家志望」のイメージしかなく、多様なアート、デザインの世界があることすら知らないのが実状でした。芸大コースに入って、初めてアートの世界をめざしている同世代の仲間と出会い、心強かったことを覚えています。周囲に何の遠慮もなく、アートの話題で盛り上がれることで、救われた思いがしました。現在、アーティスト、クリエーターとして活躍されている美大出身者に話を聞くと、皆さん、私と同じような思いのようで、「予備校時代が一番楽しかったし、最も重要な学びだった」と、口をそろえて語っています。

デザインコンペに積極的に挑戦し、「富士山グラス」などで受賞

・・多摩美術大学に入学後、力を入れたことはありますか。

好きな勉強ですから、授業は真面目に受講していました。また、自分の実力を試したいと思い、デザインコンペにも積極的に挑戦しました。2006年にはBombay Sapphire「Art of Martini」で日本グランプリに選出され、世界大会でも入賞を果たしました。マティーニグラスをデザインするコンペで、私は、手で水をすくって溜めた形に石膏を流し込んで成形し、それにガラスをかぶせたグラスを作りました。まったくマティーニグラスに見えない形で、それでいいのかという話もありますが(笑)、器の起源は手といわれていますし、主催者のBombay Sapphireは素材にこだわったお酒を製造しているメーカーなので、より素材を味わうために、口だけでなく、手でも味わってもらおうという思いを込めました。

・・大学卒業後の経歴を紹介してください。

2008年「Tokyo Midtown Award」で 審査員特別賞を受賞した「富士山グラス」

2008年「Tokyo Midtown Award」で 審査員特別賞を受賞した「富士山グラス」

卒業後、(株)NECに就職し、インハウスデザイナーになりました。日本の電気メーカーの多くが、デザインは内部の社員が担当するシステムを採用しており、外部のデザイナーと契約する例はほとんど見られません。私はパソコン、リモコン、携帯電話などのデザインを担当し、2008年にはラップトップ型パソコンでグッドデザイン賞を受賞しました。同じく2008年のSwarovski「Crystal Vision」では、ジュエリーとしても楽しめるコンタクトレンズを発想し、コンタクトレンズの表面に薄くクリスタルのカッティングを施し、目につけると輝いて見えるデザインで応募し、入賞しました。さらに、2008年の「Tokyo Midtown Award」では、日本の土産物を作るというテーマに対して、ビールを注ぐと、泡が山頂の雪のように見える「富士山(ふじやま)グラス」で応募し、審査委員特別賞を受賞しました。「富士山グラス」はその後、商品化されています。

(株)NECに就職したのは、自分がデザインした製品が、どのような営業や広告の戦略によって販売され、エンドユーザーのもとに届くのか、一連の流れを体感したいと考えたからです。充実した業務内容でしたが、そのうちにもっと単純にデザイン性だけを追求したいという欲求が強くなっていきました。そこで退職して、多摩美術大学時代の恩師であり、私が最も尊敬するプロダクトデザイナーである岩崎一郎先生のデザイン事務所に移ることにしました。同事務所で約3年間、修業を積んで、2012年に独立して、「PRODUCT DESIGN CENTER」を設立しました。

その製品を象徴する「THE」のデザインにこだわっていきたい

・・現在の主な仕事の内容を教えてください。

「PRODUCT DESIGN CENTER」は、外部から委託を受けてデザインを考案する業務が中心です。当然、顧客の意向に配慮する必要がありますから、必ずしも自分のアイデアをストレートに反映させられるとは限りません。それはそれでチームで作る面白さがあるのですが、自分の想いをストレートに表現し、自分のデザインにより責任を持ちたいとの想いから、商品の製造・販売までをも手がける「THE株式会社」を設立しました。「くまモン」などの代表作を持つアートディレクターの水野学氏と、日本の伝統工芸を元気にするというビジョンで活発な活動を展開している中川政七商店の中川淳社長と共同で設立、東京駅のKITTEに直営店も出店しています。

「THE」というブランドは、世の中のスタンダードのレベルを上げるためのプロジェクトです。さまざまな会社が差別化を求めすぎて、自分たちが本当にほしいものが市場からなくなってしまったと感じています。スタンダードに真っ向から挑戦するプロジェクトです。たとえばリーバイスが「THEジーンズ」であるように、各アイテムの「ど真ん中」を作り出すことができれば、これは長きに渡り愛されるものになります。その製品を象徴するような「これこそは」と呼べるデザインを作り出すことにこだわっていきたいと思っています。

・・現在の仕事に、河合塾で学んだことが生きていると感じられることはありますか。

芸大コースには1つのチームのような雰囲気がありました。先生と生徒という立場の違いを超えて、全員が同じクリエイターであるという考え方で向き合ってくださいました。その中で教えられたことは、すべて現在の仕事に生きています。とくに、先ほども申し上げたように、美術、デザインの世界では、作品を作る上で正解はありません。もしかすると、社会が評価してくれる幸運に恵まれることもあるかもしれませんが、最終的な評価をくだすのは自分自身です。そして、その答を追求し続け、成熟させていくことがクリエーターの宿命です。そうした心構えがしっかり身についたことが、私の財産だと考えています。

センスは必ずしも先天的なものではなく、知識と経験によって作られる

・・最後に、後輩へのメッセージをお願いします。

最近、「センスは知識と経験によって作られる」という言葉を聞き、感銘を受けました。先天的なセンスが備わっていないからといって、あきらめる必要はないのです。私自身、河合塾に入った当初は、自分のあまりのレベルの低さに挫折感を覚えたことが度々あります。それでも、この世界を学びたいという気持ちだけは人一倍強く持っており、感動したデザインの成り立ちなどを自分なりに勉強するように努力しました。私は、センスとは時代に追随するものではないかとも考えています。時代に受け入れられたデザインを深く見ていけば、その時代に合ったセンスが身についていきます。とくにデザインの世界は、時代を捉える確かな目が最大の武器になるフェーズ(局面)に入っている気がしています。

Profile

鈴木 啓太 氏(Keita Suzuki)

鈴木 啓太(Keita Suzuki)

1982年生。プロダクトデザイナー。金沢美術工芸大学製品デザイン学科客員教授。多摩美術大学プロダクトデザイン専攻卒業後、(株)NECデザイン、イワサキデザインスタジオを経て、2012年にデザインオフィス「PRODUCT DESIGN CENTER」、プロダクトブランド「THE」を設立。同年に創業した商業施設 KITTE(丸の内)に『THE SHOP』をオープンさせる。自身のデザインオフィスでは「緻密に緻密をデザインする」をテーマに、スタートアップ企業やメーカーとの新製品開発に携わっている。<br /><br />

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