「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.82 (2015年1月28日公開)
- 会社員(金融・商社)
- 海外帰国生コース
小論文の授業を通して<br />夢を実現する方法を論理的に考える力や<br />自分なりの意見を<br />とことん突き詰める力が培われました。
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国際協力銀行
調査役板垣 慎一さん
- 出身コース
- 海外帰国生コース
アメリカの高校生活を尊重する河合塾の方針に共感を覚えて
・・どの時期から海外で生活を送られたのですか。
1993年7月から1997年6月まで、NHKの報道局経済部記者だった父のワシントン支局への転勤に伴って、アメリカ・メリーランド州ベセスダ市のウォルト・ウィットマン高校で学びました。幼い頃から、洋楽を聴くのが趣味で、英語は得意なつもりでしたが、さすがに現地校の授業内容を理解できるようになるまでに時間がかかりました。当初は、日本語で考えて、それを英語に翻訳して話すような状態で、頭を英語に切り換えるのに苦労したのです。それでも、数カ月経つと完全に慣れて、夢も英語でみるようになりました(笑)。
・・そのままアメリカの大学に入学する選択肢もあったと思いますが。
ええ。高校卒業間際になって、アメリカに残るのか、日本に帰国するのか、選択を迫られ悩みました。そのとき父からアドバイスされたのが「学問は母国語で勉強した方がいい。今後、日本語と英語のどちらを自分の母国語としていくのか、それを決めた上で選択しなさい」ということです。当時から、将来の夢は国際舞台で活躍することでした。それを実現するためには、まず自分の専門の基盤は日本語で固め、その上で必要性を感じたら大学院の段階でアメリカに戻るという選択肢もあると考え、日本の大学に進むことを決断しました。そこで、1997年6月に帰国し、河合塾海外帰国生コースに通うことにしたのです。
・・河合塾を選ばれた理由は何ですか。
当時ニューヨークで行われた河合塾海外帰国生コースの説明会に参加した母から、「いまはアメリカの高校生活をエンジョイしてほしい。日本の大学入試対策は、帰国してから河合塾がサポートするから、それで十分に間に合う」という河合塾の方針を聞いたことが、最大の理由です。せっかくアメリカの高校で学んでいるのに、日本の大学入試に合わせた勉強をするのはおかしい。アメリカで多様な経験を積んで、感性を広げることの方が大切なはずだと感じていたので、アメリカの高校生活を尊重する河合塾の考え方に母も私も共感を覚えたのです。
合格者の豊富な実例を通して、明確な到達目標を設定できた
・・印象に残っている授業はありますか。
京都大学経済学部の外国学校出身者特別選抜では、書類審査のほかに、小論文と面接が課されます。河合塾の授業で、小論文の力を大幅に伸ばすことができたことに感謝しています。先生からよく指導されたのは「小論文とは自分を描くもの」ということです。どんな題材が与えられても、他者とは異なる、自分ならではの主張をどう組み立てるか、それにこだわる習慣を身につけることができました。「自分の主張を持つ」という姿勢は、仕事にも大いに生かされています。もっといえば、人生をどのように充実したものにするか、自己実現を果たすためには何をすべきなのか、論理的、計画的に考えられるようになったきっかけも河合塾の小論文の授業であり、今も私にとって大きな武器になっています。
・・面接については、どのような対策を立てられましたか。
実は、私は計20ヶ所に出願しました。どの大学もそれぞれの良さがあるので、試験会場まで足を運び、肌でキャンパスの雰囲気を感じながら、自分がどの大学で何を学んだうえで何を将来したいのかについてのイメージをしたかったからです。また、日経新聞と朝日新聞を毎日欠かさず熟読しました。日々世の中の出来事に触れつつ、それに対する自分の考えをしっかりと持とうと努めることで、知識面・精神面でベストを尽くせるようなリズムを作っていきました。場数を踏んだ効果は絶大で、最後に臨んだ京都大学の試験では、筆記も含めあがらず、自分が話すことをあらかじめ整理したうえで、冷静に、自信を持って挑むことができました。実際、他の受験生の面接時間が5分程度なのに対して、私は面接官と会話が盛り上がり、25分間も話し込んだほどです(笑)。ちなみに、4年後の就職面接でもこの時の経験が大いに活かされました。
・・英語の授業も受講されたのですね。
受験を予定していた大学の中に、英語が課される大学もあったので受講しました。英語と日本語のインタラクション(相互作用)を意識する、いい機会になったと思います。
・・そのほか、河合塾に通ってよかったと感じていらっしゃることはありますか。
河合塾の強みは、入試に役立つ情報が充実していることです。たとえば、合格したOBが、どのような成績の推移を見せたのか、たくさんのデータが蓄積されています。合格者が授業で書いた小論文も閲覧することができました。おかげでどのレベルまで到達すれば、合格できるのか、実例を通して、明確な指標を設定することができました。
受験においては、単純に学力を高める努力以上に、情報を収集して、自分の現状を把握して、不足している部分を補うためには、どれだけの時間をかける必要があるのか、きちんと分析して、それを達成するためのスケジュールを立てる力が重要になると私は考えています。河合塾には、そのベースになる情報が充実しており、しかも具体的に見える形で示されていたことが大きかったと感じています。
ユーゴ移民から紛争の最大の原因は貧困にあると聞き、経済学を志向
・・京都大学経済学部を志望した理由をお聞かせください。
私がアメリカで高校生活を送った頃、国際社会は激動の時代を迎えていました。日本ではバブル経済崩壊、日米自動車交渉など、国際情勢に目を向けると、ユーゴ紛争、香港返還などが起こっていました。多感な時期の私にとって、最も衝撃的だったのがユーゴ紛争です。ボスニアで一般市民が虐殺される様子を見て、生存権さえ保障されない社会があっていいのか、それを撲滅するために日本人として何か働きかけができないか、そんな思いが募っていきました。アメリカは移民を積極的に受け入れる国ですから、私が通っていた高校にも、ユーゴからの生徒が編入してきていました。その一人から、紛争の根底には、宗教ではなく、経済・貧困の問題があったことを教えられ、経済学を学ぼうと決意しました。また、1995年の日米自動車交渉で、当時の橋本通産大臣が、カンターUSTR代表に対して、一歩も譲らずに交渉を決着させたという出来事がありました。私は海外経験を通して、英語と日本語の両方を駆使できるし、異文化への理解力も備えているのだから、こうした国際的な交渉の舞台づくりに貢献できるのではないかという夢も膨らんでいきました。そのためにも、経済学の深い専門知識が不可欠になると考えたのです。
京都大学を志望したのは、父から「育った東京だけでなく、古都京都にも身をおいてやってみるのもいいのではないか。将来海外と接点を持ち続けるのであれば、むしろ日本人として日本の文化はあまり詳しくありませんとは言えないだろう」とアドバイスされたことが理由です。実際、学生時代は数多くの神社仏閣を巡り、京都の魅力に浸っていました。
・・大学時代に力を入れたことはありますか。
将来、国際舞台で活躍したいという思いはずっと持ち続けていましたので、経済学の専門科目はしっかり勉強しました。経済学は国を豊かにするための学問ですが、経済学の世界では「国イコール人」であり、貧困で苦しんでいる人々をどれだけ豊かにできるかが最大の命題になります。その意識で貪欲に専門知識を習得しました。
また、世界最大のインカレサークル「アイセック(国際経済商学学生協会)」にも参加し、学生同士の異文化交流事業のサポートなどを務めました。さらにバスケットで知り合った総合人間学部のブライアン・ハヤシ教授が近代日米史の研究をしており、『Democratizing the Enemy』という、なぜ戦時中米国は日本人だけ強制収容所に入れたのかを探る執筆に係る調査などの手伝いをさせてもらい、アメリカとの関係における日本をより深く掘り下げる機会や、英語力も維持・向上する機会を得ることができました。
・・卒業後の経歴を紹介してください。
2002年4月、国際協力銀行に入行し、米州(メキシコほか中米諸国)・欧州(ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルーマニア、アルバニア、スロバキア)における資源・インフラ事業に対する外国政府および本邦企業向け融資や、外国政府との政策対話のアレンジ、トルコやインドネシア向け輸送機械等の輸出に対する本邦および海外企業向け融資を担当しました。2008年には1年間、アメリカのデューク大学大学院に会社からの派遣で留学し、経済学・経営学・公共政策学を学ぶ機会も得ました。現在は、企業の海外案件取り組みを紹介する機関誌の企画や、企業の海外展開に資する講演企画や調査などを担当しています。高校時代に抱いた夢に着実につながる業務に携わっているという実感があり、幸運なことだと感じています。
帰国生には国際社会に貢献するという強い使命感を持ってほしい
・・これまでの経歴の中で、河合塾で学んだことが役立っていると感じていらっしゃることはありますか。
自分の思いをどうすれば実現できるのかを論理的に考える力や、自分なりの意見をとことん突き詰めて考え抜こうとする姿勢、つまり自分の色を出すということ、そのいずれもが河合塾の小論文の授業で培われたものです。それが仕事の上でも、人生の指針を立てる上でも役立っています。
・・最後に、後輩へのメッセージをお願いします。
三つあります。一つ目は失敗を生かす強い心を育ててくださいということです。私は中学受験で実力を出せなかった経験がありましたので、「負けない計画」を立て、「あの時に味わった失敗から学び、挽回したい」という気持ちを強く出して受験と向き合いました。二つ目は、両親や周りで支えてくれた方々への感謝を忘れないでくださいということです。決して裕福な家庭ではなかったので、両親から中学受験に続き大学受験の費用でも多大なる迷惑をかけましたが、「大学での経験はお金では買えない、今後の人生において数倍にもなって戻ってくるはずだ。自分が行きたい大学に行くことが大事なのは、自分と同じぐらい使命感を持つ学生が集まる場所であり、様々な刺激を受けるからだ。だからお金は気にせず、悔いのないよう思う存分打ち込みなさい」と言ってもらいました。受験生には多大なる費用と両親からの愛情が注がれていることを忘れないでほしいと思います。最後に、自分は将来、どのような形で社会に貢献するのかという志を自分の中で育て、考えてほしいと思います。帰国生の皆さんは、多感な時期に、異なる価値観を持った人々と交流したという貴重な経験があるのですから、それを活かせる道が必ず見つかるはずです。そのうえで、それを実現するために、どの大学に進み、どんな学問を勉強する必要があるかを考えてほしいのです。明確な将来の目標があれば、どんな苦難にも耐えられるでしょうし、受験勉強のモチベーションも高まります。皆さんの助けを待っている人はたくさんいますから、そういう人々の役に立つという強い使命感・志を持って、受験勉強も乗り切ってほしいと思います。
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板垣 慎一(Shinichi Itagaki)
1978年岐阜県生まれ、その後石川県金沢市や神奈川県川崎市を経て千葉県浦安市育ち。15~18歳までアメリカ・メリーランド州モンゴメリー郡に滞在。1997年6月にモンゴメリー郡立ウォルト・ウィットマン高校(4年制)を卒業。同月帰国後、河合塾海外帰国生コースへ入塾。1998年4月京都大学経済学部入学。2002年3月に同学部を卒業後、同年4月国際協力銀行(現在は(株)国際協力銀行)に入行。2008年アメリカ合衆国デューク大学 テリーサンフォード公共政策大学院入学、2009年に同大学の修士号を取得。国際協力銀行に入行後は、米州・欧州における資源・インフラ事業向け融資や政策対話のアレンジ、およびアジア向けなどの輸送機械等の輸出に対する融資を担当。現在は、機関誌の企画立案、本邦企業の海外展開に資する講演企画や調査を担当している。
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