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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.84 (2015年3月30日公開)

  • デザイン・アート関連
  • 河合塾美術研究所
ファッションデザイナー 飛田 正浩さん

講師の方々の熱いアドバイスによって<br />1人では到達できなかった表現の領域に<br />踏み込めたという感動を味わえました。

  • spoken words project
    ファッションデザイナー

    飛田 正浩さん

    出身コース
    河合塾美術研究所

「最後の1年」の不退転の覚悟で、精鋭が集う河合塾へ

・・デザインに興味を持つようになったのはいつ頃からですか。

母が洋裁専門学校出身で、物心ついた頃から、母の手作りの服を着て育ちました。本音ではアディダスや、アニメのキャラクターの服を着たかったのですが(笑)、今思い返すと、このことがファッションに興味を持った原点ですね。そこからおしゃれに興味が生まれ、カツラをかぶって、サングラスをかけて小学校に行った写真も残っています。当時ブームになっていた歌手「フィンガー5」のような格好で、友人たちの注目を浴びるのが楽しかったのだと思います。

一方、運動も得意でしたので、中学時代は野球部に入り、ピッチャーで4番、キャプテンも務めました。野球の強豪高校からスカウトにきたほどです。ところが、高校入試間近になって、交通事故の大怪我でボールが持てなくなってしまったのです。周囲は「せっかくの野球の夢が交通事故で絶たれてしまった」と心配そうな目で見ます。けれども、私はむしろ「これで野球を続けなくてすむ」と、すっきりした気持ちでした。大きな大会に出場すると、小さい頃から野球の英才教育を受けてきた選手にたくさん出会います。私のレベルで野球の世界で成功するのは絶対無理だと感じていたからです。

そのため、高校入学後は野球部には入部せず、その代わりに熱中したのが読書です。中学時代から愛読していた「オリーブ」「アンアン」などのファッション雑誌のほか、「宝島」「びっくりハウス」「鳩よ!」など、音楽や詩、サブカルチャー関連の雑誌を読んでいました。太宰治、ボードレールなど、文学にも興味を持ちましたが、今振り返ると、それもファッションとして読んでいた気がします。糸井重里さんがデビューした時期で、広告のコピーにも興味があり、「アンアン」のコピーの公募展で大賞を受賞したこともあります。表現の楽しさに目覚め、高校2年生の頃には、さまざまなカルチャーの中で、とくに好きなファッションを学ぶために、芸術系大学受験を決意していました。

・・河合塾に通うようになったきっかけは何ですか。

高校3年生から、地元・埼玉の美術系予備校に通いましたが、高校卒業後3年たっても志望校に合格できませんでした。さすがに心配した父からは「もうあきらめた方がいい」と説得されました。ところが、私はあきらめの悪いタイプで、現在の仕事でもそうですが、何らかの達成感が得られるまでは続けたいと考えてしまう性格です。「もう1年間だけ受験生活を続けさせてほしい」と、父に頼み込み、環境を変えるために、「最後の1年」という不退転の覚悟を持って、河合塾に移ることにしました。

河合塾を選んだのは、当時から「芸術系なら河合塾」と、高く評価されていたからです。公開コンクールの参考作品を見ても、河合塾の生徒のレベルは図抜けており、こんなライバルたちと一緒に学べば、必ず成長できるはずと考えたのです。

最適の場所を確保するために、朝7時から並んで待ったデッサンの授業

・・河合塾時代の思い出をお聞かせください。

アカデミズム系の理論派の先生と、社会の現場経験豊富な先生のバランスが図られていたと思います。現役のデザイナーとしても活躍されている先生からは、今ブームになっているカルチャーの話を聞いたり、ギャラリーに連れていってもらったりなど、文化の息吹を感じることができました。熱意あふれる指導もうれしかったですね。

・・印象に残っている授業はありますか。

石膏像のデッサンの授業では、生徒はそれぞれ頭に描いている構図があります。それを描くのに適した場所を確保するために、玄関が開くのは朝8時半なのですが、朝7時前にはもう並んで待っていたことを覚えています。夕方4時にいったん授業は終わるのですが、納得がいかなければ、夜遅く門が閉まるまで粘って取り組んでいました。

そうやって頑張って、自分なりに限界に近いところまで描いたつもりなのに、先生から「この部分をもう少し描いた方がいい」と指導されることがよくありました。「これぐらいで十分なのに……」と思いつつも、指摘された部分を修正すると、それまで見えていなかったものが見えてくるのです。それまでも自分なりに努力して鍛練してきたつもりでしたが、河合塾の先生方のアドバイスによって、自分には見えていなかった表現領域に踏み込めたという興奮を味わえました。私がもう限界だと思っていたその先の世界へ、一線を越えることができた感動があったのです。

反面、先生方のアドバイスは、必ずしも加える作業だけではありませんでした。ときにはある部分を削るように指導されることもありました。「ここを削ったら何もなくなるじゃないか」と不満を覚えたことも少なくないのですが、描いた痕跡は何かしら残っているもので、削ることによって新たに生まれる表現もあることを知りました。長く受験生活を続けていると、どうしても細かいところに目が行きがちですし、どんどん描き重ねていこうとしてしまいます。俯瞰して見て、不要な部分は思い切って取る経験をしたことで、ワンランク上のデッサン力が身につきました。

ライバルからセンスを評価されることが大きな自信に

ライバルからセンスを評価されることが大きな自信に

河合塾には全国から精鋭が集まっており、まだ会話をしたことがない頃から、お互いの作品を見て「できるな」と火花を散らしていました(笑)。彼らから、のちに「実はすごくいいセンスだと注目していた」と認められることがうれしく、自信になりました。授業中に作品を批評し合うこともあるのですが、仲間からの指摘はとても刺激になりました。また、ちょっとマニアックな話ですが、芸術系を志望する生徒は、それぞれオリジナルの技法を持っています。どんな道具を使っているのか、あるいは鉛筆のタッチを手でこするのと、ティッシュでこするのでは色合いが違ってきますから、どの方法を使っているのかなど、手の内を明かしてもらって参考にしたこともあります。もちろん、大切にしている技法は隠す場合もあるわけですが……(笑)。

仲間たちとは、さまざまな公募コンクールにも挑戦しました。「我々は河合塾なのだから、上位に入って当然」という気持ちで臨み、実際、好成績を収めることができました。苦楽をともにしたという意識が強く、その人間関係が受験生活の支えになった気がします。

キャンパスの壁面に英単語を貼り巡らした「spoken words project」

・・河合塾に入って1年後に多摩美術大学に入学されたわけですが、大学時代に力を入れたことはありますか。

河合塾の仲間とロックバンドを組んで、ライブハウスなどで演奏しました。私は詩に興味があったため、演奏の合間に詩を朗読しました。それが後に「方向性が合わない」と、解散の原因にもなったのですが、この経験を通して、言葉というものがすごく気になり始めたのです。そこで、大学3年生のときにスタートさせたのが「spoken words project」です。キャンパス内のさまざまな壁に、英単語をひと言書いた紙を貼り巡らすという表現活動です。すると、その紙に何かを書き込む学生が出現し、イメージに広がりが生まれていったのです。さらに、現代美術の教授が、この活動を面白がって、すべての英単語を記録しておき、どのような意味のつながりがあるのか、授業で解説されたこともあります。大学側から叱責されたことはなく、こうした学生のゲリラ的な活動を、それもまた芸術活動と許してくれたのは、美大ならではの懐の深さといえるかもしれません。

日本オリジナルのファッションを生み出したい

・・その後の経歴を紹介してください。

大学2年生のときから、河合塾で講師を務めました。河合塾には、作家としての表現活動と講師を両立させている先生が多く、その影響を受けて、私も大学卒業後、就職はせず、河合塾で講師を続けながら、いずれ作家として一人立ちしようと決めました。

また、卒業制作に取り組む段になって、そういえば自分はファッションを勉強したくて美大の染織デザイン科に入学したのだったと、改めて思い出しました(笑)。それまで音楽や「spoken words project」に夢中になっていたのですが、ミシンを買って、縫い始めてみると、もう楽しくて仕方がありません。やはりファッションの世界が自分に合っていると再認識しました。

デザイナーになるためには、アパレルメーカーやブランドに就職して、キャリアやスキル、コネクションを構築した上で独立するのが一般的です。けれども、私には既製品を作るという考えはありませんでした。そこで、「spoken words project」を自分のファッションブランドとして立ち上げることにしました。自分で染めてプリントした作品を大量に抱えて、さまざまな雑誌の編集部を巡り、少しずつグラビア誌面などで取り上げてもらえるようになり、大学卒業後3年目にはファッションショーを開催することができました。その後、東京コレクションなどにも参加。現在ではアーティストの衣装や舞台衣装なども手がけています。

・・今後の目標をお聞かせください。

洋服が日本に入ってきて約150年。単純な西洋の模倣は、ある意味で曲がり角にきている気がします。もちろん、ファッションの世界ではパリコレが最高峰であり、目標でもあります。その一方で、私が最近気になっている言葉が「素朴」です。この言葉をキーワードとして、日本オリジナルのファッションを生み出すことが、今後の目標の1つです。その一環として、2014年秋には「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2014」に参加しましたし、京都の和服店とコラボレーションした活動も進めています。

入試のための技法習得と、アートの感性を磨くこと、その両立が大切になる

・・現在の仕事に、河合塾で学んだことが活きていると感じていらっしゃることはありますか。

先生方との縦のつながり、仲間との横のつながり、その両方が貴重だったと思います。それまで越えられなかった表現の一線を突き抜けることができたのは、先生方の指導と、仲間からの刺激でした。

・・最後に後輩へのアドバイスをお願いします。

入試という規定演技のための技法習得と、アートというファンタジーな世界で感性を磨くこと、その両方を大切にしてほしいですね。河合塾はまさにその両立が図られている場でした。先生方がよく「受験教育をしているつもりはない」と語っていたことを思い出します。もちろん、志望校に合格することが目標ではありますが、受験のための勉強だけをしていたのでは、大学入学後、あるいは社会の現場では通用しません。河合塾では、感性を枯渇させないために、ときには2週間ほど自画像の制作に没頭させる機会も設けられていました。そうした長い目線で指導してくださったことに、改めて感謝しています。

Profile

飛田 正浩(Masahiro Tobita)

飛田 正浩(Masahiro Tobita)

1968年埼玉県生まれ。埼玉栄東高等学校卒業後、1990年に河合塾美術研究所名古屋のデザイン工芸コース入塾。同所での1年を経て、1991年多摩美術大学染織デザイン科入学。同大学在学中より行っていた表現活動「spoken words project(スポークンワーズプロジェクト)」を、卒業を機にファッションブランドに改める。1998年東京コレクションに初参加。手作業を活かした染めやプリントを施した服作りに定評があり、現在アーティストの衣装や舞台美術、テキスタイルデザインも手掛ける。2014年には「みちのおくの芸術際山形ビエンナーレ2014」に参加。ファッションの領域を越えて活動中。<br /><br />

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