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「私と河合塾」-OB・OGが語る河合塾-: Vol.33 (2011年1月公開)

  • 教育・研究者
  • 河合塾COSMO
郁文館中学・高等学校 講師 保坂 征範さん

「学力ゼロ」を前提としてスタートする授業が不登校、留年を経験し、圧倒的に不足していた私の学力を受験レベルまで伸ばしてくれました

  • 郁文館中学・高等学校
    国語 講師

    保坂 征範さん

    出身コース
    河合塾COSMO

部活動の挫折、持病の悪化などが原因で不登校状態に

・・河合塾COSMOに通うようになったきっかけから教えてください。

高校2年生で留年し、通信制高校に転校。高校卒業までに4年を要しました。現役の時は、漠然と大学進学を考え受験したのですが、ほとんど勉強していない状態だったので、すべて不合格でした。その後、「教師になる」という夢を見つけ、その夢を実現するためには大学進学が不可欠だと知りました。とはいえ、一般的な予備校の授業にはついていけないと思い、自分に適した予備校はないか、いろいろ調べたところ、中退者を受け入れて、大学受験まで面倒を見てくれる河合塾COSMOの存在を知りました。

・・保坂さんは高校中退ではないわけですが……。

中学、高校ともに学校に通っていない時期があったので、学力的には中退者と同じレベルでした。

河合塾COSMOの説明会で感動したのは、先生が「学力ゼロからスタートしよう。必ず受験に合格する力を身に付けさせる」と言われたことです。一般的な予備校は、下位のクラスであっても、学力1の段階から授業がスタートします。つまり、学校で一通りのことは学習していることを前提として授業が進められます。それでは、ほとんど学校に通っていない学力ゼロの私は授業についていくことができません。学力1とゼロの差はきわめて大きなものであり、その部分のフォローを大切にする河合塾COSMOの方針が、私が求めていたものだと感じました。

・・学校に通っていない時期があったというのは、不登校状態だったのですか。

中学2年生の夏休み明けから不登校になり、約半年間は完全な引きこもり状態でした。

・・それは何が原因だったのでしょうか。

はっきりとした原因は自分でもわかりません。心と体のバランスが崩れ、自分ではコントロールすることができなくなりました。強いて言えば、もともと完璧主義者であったことと母親が典型的な教育ママだったことです。小学校時代は、勉強ばかりやらされていた記憶があります。少年野球チームに入っていたのですが、有名塾に合格するために、それもやめさせられてしまいました。その結果、小学校5年生の時に、担任の先生から「保坂君は、成績はいいけれども、笑わなくなった」と指摘されました。その時初めて、母親は私の異変に気づき、野球をやらせてくれるようになったのですが、常に勉強を押しつけられているという感覚があり、そのプレッシャーが不登校の原因の1つになったように思います。

また、中学では野球部に所属。ピッチャー志望で、中学1年生の夏休み明けに、「次のエースは保坂だ」と指名され、張り切りました。ところが、その中学を転校することを余儀なくされ、新しい中学でも野球部に入ったのですが、もう新チームができあがっていたため、エースどころか、ピッチャー自体をやらせてもらうことができませんでした。そこで完全に緊張の糸が切れてしまいました。今にして思えば、念願かなってエースになれることを目の前にして転校をし、夢が崩れた瞬間、完璧主義者の私は心と体のバランスを保てず、不登校になったのだと思います。

結局、中学時代はほとんど学校に通えない状態でした。当然、出席日数が不足しており、公立高校は内申書の問題もあり進学することは難しく、不登校児などを受け入れている私立高校に進学しました。

・・高校時代は不登校は克服できたのですか。

はい。高校1年生の1学期までは順調に通っていました。ところが、今度は持病のアトピー性皮膚炎が悪化してしまいました。それまで治療のために、最も強力なステロイド剤を1日1本塗布していたのですが、その影響か定かではないのですが、目に網膜剥離の初期症状が生じてしまいました。そのため、病院を変えて新たな治療法を始めました。新たな治療法は、まずステロイド離脱をするというものでした。その治療を始めてすぐにステロイド離脱によるリバウンドで全身包帯巻きの状態で過ごすことになりした。その後、3カ月間全身包帯巻きの状態を2年間で7回繰り返しました。当然、通学は困難になり、高校2年生の時に留年し、わずかな通学とレポートで卒業可能な通信制高校に転校しました。

・・学校生活でさまざまな苦労があった保坂さんが、教師をめざそうと考えた理由は何だったのでしょうか。

私は学校が好きだということに気づき、教師になれば一生学校に行くことができると考えたからです。通信制高校を卒業し、これから先の自分の人生について初めて本気で考えた時のことです。学校とは本来楽しいところであり、生徒にとって心の居場所であるはずです。しかし実際には、全員がそう感じられているわけではないと思います。紆余曲折の人生を生きてきた私の経験を伝えることで、たった一人でも学校を好きになることができる生徒がいればという思いもありました。

理解が不足している分野を「個別プリント」でフォロー

・・河合塾COSMOの教育で印象に残っていることを教えてください。

先ほど申し上げたように、河合塾COSMOの授業は、基礎の基礎から教えるスタイルでした。たとえば、古文で『伊勢物語』を取り上げるとすると、一般的な予備校なら、主人公のモデルが在原業平であることは「常識」として知っていることを前提として授業が進められていきます。対して河合塾COSMOでは、在原業平の読み方や、どんな人物であったかといったところから授業が始まります。そうしたゼロからスタートする授業でなかったら、私は大学に合格することができなかったと思います。

・・すべての教科がゼロから教えてくれる感じだったのですか。

レベル別のクラス編成ですから、もっと高度なところからスタートするクラスもあったと思いますが、私は全教科とも最も下のクラスを選択したので、基礎の基礎から学ぶことができました。

それでも、当初は全く理解できない状態で、先生に相談しました。今、考えると、そんな生徒に対しては「しっかり予習して授業に臨みなさい」とアドバイスするのが一般的だと思います。ところが、河合塾COSMOの先生方は、「一学期は予習をしなくていい」と言われました。そんな先生に出会ったのは初めてでした。「学力がゼロの今の段階で、予習をやっても苦痛なだけ。全部授業の中で補うから、一学期までは復習を完璧にやりなさい。そうすれば夏以降には必ず理解できるようになる」という言葉に感動して、復習に専念しました。

しかも、河合塾COSMOでは、一人ひとりに応じたサポートも行われていました。先生に「この部分がわからない」と質問に行くと、「では、その部分の解説のプリントを作るから」と言われ、次の日には実際にそのプリントが渡されます。「プリントを読んでもわからなかったら、いつでも質問にきなさい」と。個別のプリントを作成するのは、大変な労力だったと思いますが、そうしたスタンスが河合塾COSMOの先生方の大きな特徴です。

人との繋がりの大切さを学んだ「河合塾COSMO」

・・塾生同士の交流はどんな雰囲気だったのですか。

河合塾COSMOには年齢も経歴も多様な人がおり、また何らかの心の傷を抱えた塾生が集まっています。相手にとって踏み込まれたくない部分を自然と感じ取り、触れないようにする雰囲気がありました。私にはその距離感がとてもよかったですね。

チューターの方の距離感も絶妙でした。河合塾COSMOでは「頑張って勉強しなさい」という言葉を言われたことがありません。大学受験科のチューターなら叱咤激励する方法も有効だと思います。けれども、不登校、留年などを経験し、社会の落ちこぼれになってしまったという意識を潜在的に持っている河合塾COSMOの塾生には、マイナス効果になる可能性があります。もちろん、放任されていたわけではなく、気軽な世間話の中で、折に触れて「不登校とか留年なんて気にする必要はないよ。自分のペースでいいんだよ」と言ってくれたのが、今でも心に残っています。一人の人間として尊重し、見守ってくれているという河合塾COSMOのスタイルに、私は落ちこぼれ意識も解消され、本当に救われました。自分も将来、生徒を信じ、尊重できる教師になりたいという思いも強くなりました。

自分の経験を包み隠さず話し「私にできたことはみんなにも必ずできる」と伝えたい

・・大学時代の思い出も聞かせてください。

河合塾COSMOに通って1年後、東洋大学文学部日本文学文化学科に合格しました。大学時代は、教師になるという夢を実現するために、教育学会というサークルに所属。毎週1回、教育問題に関するテーマを決めて、担当学生がプレゼンテーションし、その後、顧問の先生を交えてディスカッションしていました。事前の調べ学習などはゼミ以上に大変でしたが、将来の夢に直結する学びなので、やりがいを感じていました。3年次にはこのサークルの会長も務めました。

・・卒業後、すぐに教職に就かれたのですか。

いえ、卒業間際になって、再びアトピー性皮膚炎が悪化。薬がまったく効かない状態で、入院生活をおくりました。そのため、1年間は療養を兼ねて勉強を続け、翌年、郁文館の国語の教師として採用されました。

・・どんな授業を心がけていらっしゃいますか。

「楽しい授業」→「わかりやすい授業」→「できるようになる授業」という3段階のステップを心がけています。根底にあるのは、河合塾COSMOで学んだゼロから教える姿勢です。始めに学ぶ意義・楽しさを伝えます。その上で基礎の基礎から教えることで、わかるようになり、成績がアップし、国語が好きになる。そういうプロセス、方程式を大切にしています。

また、私は必ず新年度の初回の授業で今までの人生経験をありのままに本音で語ります。私が教師になるという夢を叶えたように、自分が一番好きで楽しいと感じることを見つけ、夢を叶えてほしいということを伝えたいからです。ほとんど学校に行っていないと言うと、生徒はとても驚きますが、最後には全員が私だけに見入っています。卒業生から「あの時の先生の言葉で、自分も頑張ろうと思うことができた」と言ってもらえた時、大きな喜びを感じます。

保護者は子どもに対してマイナス表現を使わないことが大切

・・河合塾COSMOの後輩たちにアドバイスをお願いします。

河合塾COSMOではとてもゆっくりと時間が流れています。「時間が止まる」と表現した仲間もいます。一人ひとりのペースを大切にしてくれる場だから、そう感じるのかもしれません。その河合塾COSMOならではの雰囲気の中で、本気になれることを見つけてほしいと思います。すでに見つかっている人は、最後の最後まで諦めず本気でがんばってほしいと思います。諦めなければチャンスは必ず来ます。まだ見つかっていない人は、「1.自分の好きなこと」「2.自分の得意なこと」「3.社会の役に立つこと」その3つを念頭に置いて考えてみてください。考える時に大切なことは、シンプルにそして深く。焦る必要は全くありません。どんな時も自分を信じてマイペースで行けば、自ずと未来は拓かれます。

・・最後に、保護者へのメッセージもお願いします。

教師の立場で見ると、伸びる子ども、将来に可能性を感じさせる子どもの共通点は、素直さです。その素直さを育むためには、親が子どもを100%信じるという愛情を注ぐことだと思います。例えば会話の中でマイナス表現を使わないこと。親がマイナス表現を使うことにより、子どもは自分の気持ちを素直に表現できなくてなってしまいます。子どもが叶いそうもないような大きな夢を語った時に、「そんなこと無理だ」とか「夢ばかり言っていないで、現実を見なさい」と抑え込むのではなく、「できるように頑張ってみよう」「応援するよ」と、励ましてあげてほしいと思います。

Profile

保坂 征範 (Masanori Hosaka)

保坂 征範(Masanori Hosaka)

1980年東京都生まれ。中学は不登校、高校は持病のアトピー性皮膚炎の悪化のため、通学が困難になり留年・退学。通信制高校に転校し、卒業。教師になるという夢を叶えるため、2000年4月より浪人生として河合塾COSMO東京校に通い、大学受験をめざす。2001年4月、東洋大学文学部日本文学文化学科に合格。教員免許を取得し、2006年より、学校法人郁文館夢学園中学校・高等学校(東京都)で国語講師として活躍中。著書『本気でやらなきゃ絶対叶わない』(文芸社)

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