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未来のマナビフェス2019 実施報告vol.9新たな高大連携への模索 〜古典文学のワークショップを通して〜

登壇者:佐藤透(桐蔭学園)、平野多恵(成蹊大学)、吉野朋美(中央大学)

昨年のマナビフェスで発表が予定されていた本セッション。とはいえ、戦後最大ともいわれる高校教育改革はこの1年の間にも着実に進行しており、発表内容について大きな見直しが迫られることになったという。本セッションのもとになっているのは、そうした改革の流れのなかで高大連携のプロジェクトとして進めてきた、古典文学のワークショップ型授業の開発の試みである。参加者は、百人一首を題材としたワークショップ型授業を実際に体験しながら、高校教育改革、とりわけ授業開発分野における高大連携の可能性と、アクティブラーニングを促す「教材」としての古典文学の可能性について学びを深めた。

アクティブラーニングを意識した授業開発の背景

佐藤 透(さとう・とおる)
佐藤 透 先生(桐蔭学園)

まず桐蔭学園の佐藤透氏により、本セッションの導入として、自身が行った桐蔭学園における高大連携の背景が説明された。佐藤氏は桐蔭学園の経営企画室長であると同時に、古典の授業も担当している。

現在、高校教育では未曾有の大改革が進行している。アクティブラーニングやカリキュラム・マネジメント、さらに共通テストの開始や新学習指導要領の施行など。教育現場は日々大変動にさらされている。桐蔭学園ではアクティブラーニング型授業を核とした改革を進めているが、高校教育を取り巻くこうした変動のなかで、学校や授業のあり方、学びの意味を根本から問い直しつづけることが求められているという。とりわけ、高校の現場で広くアクティブラーニング・ブームというべき状況が見られるなかで、「なぜアクティブラーニングなのか」というアクティブラーニング型授業導入の原点に立ち返らざるをえなくなったという。

そもそも、桐蔭学園がアクティブラーニング型授業を導入したのは、それが学校から社会へのトランジション課題の解決に資すると考えたためであった。しかし、そうした大きな目標を前に、果たして自分たちの授業実践を子どもたちの未来と繋げて自ら語ることができるのか、という問いに突き当たることとなった。そのきっかけとなったのは、生徒からの声である。既有の知識やこれまでの経験を踏まえて文章を理解することを目標にした授業で、生徒から「そうした能力は古文でしか身につけられないのか。古文で身につけなければならないという理由はあるのか」という疑問を突き付けられたのだという。

未来の社会で必要とされる力は何か、それを「古文」で、かつ「アクティブラーニング」で育てようとする意味を語り直す必要に迫られたと佐藤氏はいう。

学びの改革実現のための高大連携

こうした文脈のなかで、主体的・対話的で深い学びの実現に向けた取り組みが新たに開始された。そこでは、(1)本文に寄り添いながら(的確な読解)、(2)協働を通して深く、多角的に考えることで、(3)自分自身を問い直す機会の創出をめざすという課題を掲げ、学習者と古典作品との媒介としてアクティブラーニングを位置付け直したのだという。

だがここで更なる課題が浮上する。どのようなテーマを設定し、どのような題材を選択し、どのような授業デザインを行うか、という課題である。教師自身が、取り上げる教材のテーマを深く理解していなければ、アクティブラーニング型授業を成功に導くことはできない。そこで、限られた授業準備期間で質の高いアクティブラーニングを提供していくために有効な方途として提案されたのが、現場の教員と大学の研究者との協働による授業開発である。

高大(院)連携の授業開発の場となっているのは、桐蔭学園の生徒も参加する日本文学アクティブラーニング研究会である。研究会には、桐蔭学園の生徒のほか、大学生、大学院生、大学教員、高校教員といったさまざまなメンバーが参加している。研究会主催のワークショップでは、桐蔭学園の生徒たちが積極的に課題に取り組み、発言し、他の参加者とともに探究を深めている姿が見られるという。高校生であっても、高度な専門知識を理解し、それらを使いこなし、議論を進めていくことは決して不可能ではない。実際に、桐蔭学園の高校生たちは、古典の多様な解釈に触れることで学びを深めており、古典ワークショップは非常に充実した学びの場として機能しているのだという。

古典文学を学ぶ意義

平野多恵(ひらの・たえ)
平野多恵 先生(成蹊大学)

続いて、日本文学アクティブラーニング研究会の発起人の一人である平野多恵氏から、アクティブラーニングで古典を学ぶことの意義に関するプレゼンテーションがなされた。

日本だけでなく、多くの国の高等教育において、古典文学は重要な役割を果たしている。例えば、米国コロンビア大学で学部教育の中核となるコア科目の一つとして古典が位置付けられているという。こうした例からも分かるように、時代を超えて読み継がれている古典は、今を生きる私たちの人生にも通ずる、重要な問題提起を含んでいるのだと平野氏は語る。古典は今の生活から切り離されたものではなく、現在の社会や自分自身にも関わるものなのである。また、古典文学は時代を超えて広く共有されているものであることから、多様な背景をもった人びとが共に議論し合うことのできるテーマにもなりうる。

これらの点から、古典文学は、批判的思考力のようなジェネリックスキルや主体的な学び、メタ認知能力を育む教材としても、有効な面を有しているという。

古典文学のワークショップ型授業の可能性

吉野朋美(よしの・ともみ)
吉野朋美 先生(中央大学)

平野氏によるプレゼンテーションのあと、吉野朋美氏がファシリテーターとなって、実際にワークショップ型授業が行われた。

題材となるのは、在原業平の和歌
「ちはやぶる神代も聞かず龍田川唐紅に水くくるとは」
(古今和歌集・秋下・二九四・在原業平、百人一首)である。

ワークショップは、3つの部分から構成されていた。まず1つ目の部分は、この和歌の「水くくるとは」の解釈をめぐって、①江戸時代半ば以降に定説となった賀茂真淵による注釈をはじめ、4つの古注釈の内容を理解したあと、②それぞれの解釈の要点をグループごとにまとめ、③全体で共有するという流れで行われた。次に、2つ目の部分では、まず解釈の変遷を改めて確認し、なぜ賀茂真淵の説が定説化したのかをグループでディスカッションし、その結果を全体で共有した。そして、最後の3つ目の部分では、定説化した賀茂真淵の解釈に対する最新の反論が紹介され、ワークショップは終了した。

今回実践されたワークショップ型授業は、古典文学を通じて批判的思考力を育むことを目的としたものであった。本セッションのまとめとして、なぜ古典文学をアクティブラーニング型授業で学ぶことが批判的思考力の育成につながるのかが、今回の授業の内容に即して吉野氏から示唆された。

吉野氏によれば、和歌の解釈には諸説が生まれるが、それは和歌の内在的な特性によるものである。つまり、和歌は31文字という短い字数で作られるため、1つの語に多くの意味が込められており、その意味の多様性が解釈の多様性につながるということである。また、句点や読点が表記されないということも、複数の解釈を生む要因となっている。さらに、社会の変化(文化、流行、社会制度など)によって和歌の解釈も変化しうるということや、和歌以外の情報(その和歌がつくられた当時の状況に関わる史料など)が新たに発見されれば解釈も変わりうるということが指摘された。それゆえにこそ、1つの和歌を読み解くにも、複数の解釈を比較し、定説や常識を批判的に捉え、検証していくための技術が求められるのである。

また、和歌が社会のなかでつくられていることや、和歌の解釈もまた特定の時代背景のなかでなされていることに鑑みれば、和歌を解釈するということは今の社会を深く批判的にとらえることにもつながるといえるだろう。古典文学の読解には、自らの目で情報源を確かめ、自ら考え、判断することが求められるのである。

会場の様子

本セッションは、参加者が古典読解と実際に格闘することを通して、その教材としての奥深さを実感する場となった。また、今回参加者が体験したようなワークショップ型授業の開発は高大連携によってこそ可能であったという点を考慮すれば、本セッションはそうした高大連携の豊かな可能性を体現する場でもあったように思われる。


※本文中の所属・役職などは開催当時のもの

※このページは日本教育研究イノベーションセンター(JCERI)によって制作されました。

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