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広島大学 村澤昌崇 先生 「大学IRと学生調査」

香川大学 小方直幸先生 近影

広島大学 村澤昌崇 先生

執筆者プロフィール
広島大学 高等教育研究開発センター 副センター長
1996年広島大学大学院博士課程後期を単位取得満了退学。広島大学で助手,その後広島国際学院大学での講師を経て,2003年より広島大学高等教育研究開発センターに着任,2018年より副センター長を務める。博士(教育学)。専門は,高等教育論,教育社会学。特に高等教育の数量データを使った計量分析を手がける。編著に『大学と国家』。日本高等教育学会理事、日本教育社会学会理事(〜2021年9月迄)。

1.「二文字省略型」大学改革の雨あられ


 FD、SD、AL、AP、CP、DP、GP、QA、・・・・。これらは一体何を意味しているか、おわかりか。これらは、ここ数十年の間に高等教育改革と称して喧伝・導入されたキーワードの省略形であり、Faculty Development、Staff Development、Active Learning、Acceleration Program、Admission Policy、Curriculum Policy、Diploma Policy 、Good Practice、Quality Assuranceを意味する。なんとも安易に省略可能で覚えやすく、普及・感染しやすい改革キーワードであることか。こうしたキーワードによって矢継ぎ早に繰り出されてきた高等教育改革についての「誇大ターム」(中村高康, 2007)は、本当に言い得て妙だったと言える。
 このほかにも、数多の高等教育改革が、半ば輸入される形で導入・推進されてきたことは周知の事実である。こうした諸改革の意義は、本質的なものから、政治的・戦略的・利益誘導的なものまで多岐にわたるが、そのような意義はもうどうでも良いので、そろそろ「大学をそっとしておいてくれないか」と言いたくなるくらいの改革の連続である。関係者によっては、この改革の雨あられに感覚も麻痺してしまい、「次はどこの誰が目新しい改革キーワードをひっさげて来るのかな」と、半ば諦めながら待ち構えているような状態でもあろう。

2.新たに登場した“誇大ターム”:IR


 そして、予断を許さずまたまたあらたな“誇大ターム”が登場だ。次は「IR」だとか。このIRとやらは、そもそもアメリカで常識であり、自らの大学のために各種情報の収集と分析を行っている機能を指すのだそうだ。そしてこれをひっさげて紹介する人たちは異口同音に「アメリカではこんなことをやっている。日本ではやっていない。だからやるべきだ」と喧伝・鼓舞する。まるで舶来モノをありがたがって日本に持ち込む輸入業者のようでもある。こうした“輸入”に際しては、アメリカ「では」、イギリス「では」と、語尾に「では」が必ずと言って良いほど付随するので、「出羽守」(でわのかみ)とも一部で揶揄されている(IRに限らず、である)。実はIRに限らず多くの二文字型高等教育改革は、このような方式によりドカドカと大学に持ち込まれて大学を日々多忙化し追い込んできたのだが、見方を変えれば大変失礼であり、現場があたかも「無知」であるかのような上から目線の物言いである(反省しなくては・・・汗)。また、「日本ではやっていない」ことを殊更喧伝することにより、暗にそれがまるで恥ずべき悪のように決めつけて(根拠無く)大学を批判していることがほとんどだ。
 しかし、ちょっと落ち着いて考えてみよう。特に「海外では常識だ、日本ではやっていない、だからやるべきだ」と喧伝する点に、だ 注釈ⅰ。   

3.「文脈」


 もちろん、何らかの改革を進める上で、参考としていくつかの事例に当たることはよくあることである。国内に先例がない案件については、海外に求めるしか無いこともままあるので、「出羽守」状態が必ずしもすべて否定されるべきではない。また、丁寧な検証を避けて、とりあえず海外物を紹介する方式は日本ではありがたく受け止められやすいし、楽である。
 それにしても、わずかな海外事例を、文脈を無視して検証もせずにドカドカと必要性を喧伝して導入するのは、いかがなものか(内省します・・・汗)。それがたとえ、対財務省や他の省庁に対する対処戦略だとしても、である。とはいうものの、高等教育の領域は昔からこのような海外輸入方式を採用してきたし、その発信源は、私の所属する高等教育研究開発センターに集散離合する研究者群であったことも否定はできないのではあるが。
 常識的に考えて、歴史や環境、制度、文化が大きく異なるアメリカの制度を、一部だけ表層的に切り取って日本に輸入しようとすることに、「ちょっと待てよ」と疑問を持たないことに疑問を感じざるを得ない。これは、言い換えれば、アメリカでIRが必然となる歴史的経緯や環境・文脈があり、そして日本では同様の機能が必然とはならない固有の文脈があることを意味する。だからまず、アメリカのIRを表層的に導入する前に、高等教育の研究者によって積み重ねられた、アメリカ高等教育史やアメリカ高等教育制度の分析を、「とにかく黙って読め、それからIRを議論しろ」なのである。これに尽きる。
 そもそも、アメリカ高等教育には、IRが普通に大学に定着する歴史的・制度的経緯があるのだ。アメリカの大学は、原理原則上は自主自立(自律)であり、全般的に中央政府や州政府の関与を極力排除し  注釈ⅱ 、高等教育の場で教授され研究される専門的内容は“同業の専門家にしか解らない”という考えの基で、同僚性原理(同業他者)に基づいた相互評価(ピアレビュー)により、大学運営を成り立たせてきたという経緯がある。これを制度化したものがアクレディテーションである。それゆえに、日本のような、政府からその充足状況を常にチェックされるような“定員”も存在しない。このようにアメリカの大学は、市場原理の中で常に生き残りをかけた経営が必要であるが、同時に経営とトレードオフの関係になりがちな教育の質にも配慮する必要がある。たとえば、アメリカの大学では、ご存じの通り各授業を通じて課される宿題の量が非常に多く、厳格な成績評価が通例であり、ゆえに、学生は、成績が悪ければ情け容赦無く単位を落とされる。その結果、これ以上在籍してもお金がかかるだけで卒業見込みが得られないと判断すれば、さっさと退学する。いわば、授業が、日本の大学入学者選抜のような、実質的な学生の選抜機能を果たしているのである。このような文脈に置かれているアメリカの大学では、常に経営と教育の質を両立するような、学生数の“最適規模”の探索が必須となり、学生の在学率(Retention Rate)や卒業率(Graduation Rate)が重要指標となる。これら指標が高すぎると教育の質が疑われ、低すぎると経営状況が疑われるのである。
 一方の日本の場合は、確かに現況においては、18歳人口に依存する限りにおいて、大学間での奪い合いが生じており、一見するとアメリカと同様な市場化が押し寄せているかのようである。しかしながら日本の場合は、未だに定員の縛りがある中で、一旦入学を認めた学生を規程年限の4年で卒業させなければ!という強迫観念が存在している。学生も、以前ほどではないが、いったん入った大学を正規の4年間で卒業することが「正しいこと」であるかのように信じてもいる。よって、在籍率も卒業率も、アメリカのそれとは意味が全く以て異なることは、火を見るより明らかである。
 もちろん、上述したような18歳人口の減少、国公立大学の法人化を始めとして、以前に比して環境は変化しており、日本の大学にもアメリカと似たような経営の必要性は生じてはいるだろう。しかしながら日本の大学は、やはり政府による政策牽引に依るところが大きく、アメリカに比して個々の機関の経営裁量が小さいと言わざるを得ない。言い換えれば、アメリカのようなIR機能を充実させる必然性が、日本には低いのではないか(だからこそ、政府主導でIRを強制せざるを得ない)。むしろ日本の大学にとっていまだに重要なのは、やはり入り口管理・入試戦略、そして学生募集と定員管理(充足問題)であり、経営診断もこの部分に依拠するところが伝統的にも大きい。つまり、日本の高等教育の文脈においては、「IRが無かった」「IRをやってこなかった」のではなく、定員充足のための学生募集や入試戦略こそが、実質的にIR機能を担っていたと言えるのではないか。アメリカと全く同じIR機能が日本に無いのは、このような日本的文脈からすれば当然のことであり、それをやり玉に挙げること自体馬鹿げている。むしろ日本の大学の固有の文脈の中に埋め込まれていた機能を、適切に再解釈することを通じて新たに「発掘」し、再定義することも重要ではないか。

4.既視感


 さらに、長らく(付け焼き刃ではあるが)高等教育の評価論を担当し、大学本部で評価業務にまみれてきた当方にとって、このたびのIR騒動には、一種の「既視感」も覚えてしまう。つまり、過去にも似たようなことが騒がれてきたのだ。
 ことは30年前に遡る。当時大学設置基準の大綱化と抱き合わせで導入された「評価」制度は、当時から様々な「根拠情報」を求めていた。若干内容は異なるが、今の文脈で言うところの「エビデンス」である。また、国立大学の文脈では、COE 注釈ⅲ やGCOE 注釈ⅳ、グローバル30等の政策事業において、当該事業による支援を行う大学の選抜の際に、大学別の研究業績情報の収集と比較が行われることになり、大学側は急遽大学教員の活動を可視化するデータベース作りを行う羽目になった。ここに、国立大学の法人化に伴う法人評価や認証評価が重なり、評価の根拠情報作りのためのデータベースの構築が俄に正当化された。また、世界大学ランキングが大学の「成功」の指標だと(根拠無く)信じられ、ランキングを上げるための戦略や評価のために、これまた教員の活動を過度に可視化する必要が喧伝され、データベースの構築運用が不可避になった(これはごく一部の大学だが)。
 そうすると、情報処理の専門家や業者が、情報システムの開発構築や導入の必要性をことあるごとにやたらと売り込んで来る。結果としてバカ高い金と労力と権威を引き換えに、晴れて情報システムは構築される。
 しかしながら、これが難物なのである。これら情報処理システムは、情報処理系の専門性に基づいて作られてはいるが、大学で集めるべき特有の情報やデータを想定しているわけでは必ずしもない場合があり、とても一般の教職員には扱いにくい。ともすると、データベースを作り導入することが目的化してしまい、そこに入れるべきデータの議論が不在になっていることもある。挙げ句の果てにはあれもこれもとデータを入れてしまえ!と指標が乱造されデータベースが膨張したあげく、どう分析して良いのか途方に暮れ結局分析にたどり着かないまま忘れ去られる・・・。これを某大学では少なくとも3,4回ほど繰り返している。つまり、無駄なコト、失敗を何度も繰り返しているのである。
もちろん、上述のプロセスは研究評価に偏っており、今日の「教学」IRとは文脈は異なるとの批判もあるかもしれない。ただしこの場合、研究か教育かの区別は枝葉末節である。明確に研究活動と教育活動を縦割りにすること自体が意味を成さないからだ。ここで強調したいのは、「システム作りの目的化」→「入れるデータの議論の不在」→「(転じて)あれもこれもとデータが膨張」→「データの死蔵」→「(挙げ句の果てに)データ分析にたどり着かず」という悪循環を何度も繰り返してきた点である。言い換えれば“仏(=データベース)作って魂(データ)入れず”のルーチン化である。だからこそIRの議論を見ていて既視感を禁じ得ないのである。

5.ただ、それでも「IR」


 現代高等教育論を俯瞰的に学んでいれば、こうした過去の失敗に学んだ上で、日本の制度や個々の大学の文脈に応じて、IR導入の是非を慎重に議論できたのではないか、と思わざるを得ない。
 ただそれでも、IR(も含め諸々の高等教育諸改革)は、必要だろう。要は、「IR」という言葉が一人歩きし、その定義を巡ってああでもないこうでもないと議論すること、IRの専門家が指し示すIRを無批判に受け止めることが不毛なのである。そう、発信する側も受け止める側にも課題があるのだ。
 IRを受け止める大学側は、トップダウン型改革や護送船団方式に長らく飼い慣らされてきたおかげで、IRを個別大学の文脈に応じて根付かせる体力も頭脳も無い。これは大学が悪いのではなく、そのような頭脳や体力を付ける必要の無い制度の中で育ったのだから、当然なのだ。このような状況は実のところIRだけでなく、すべての新自由主義型改革に言えることだが、自主自律を必要としなかった文脈に、突然に、何のサポートも無く(いやむしろ支援を削ることの正当化として)、「今日から自主自律ですよ」と言われ、「はいそうですか」と簡単に転換できるほど、大学組織は柔軟ではない。このように言うと、今流行の「組織学習」を持ち出された批判をされそうだが(笑)、学習するにしろそのためのインフラ支援が必要なのである。
 そしてIR必要論を発信する側は、現状において、IRの整備に関する一切の支援を先送りにして(IRを根付かせるための支援は無く、IRを根付かせた大学にその見返りとして支援する逆転現象)、そのくせ一方的に「IRやれやれ」と強制と統制をする今の方式を採る限り、まるで兵站を無視して無謀な突撃を繰り返したインパール作戦のようであることを、改めて自覚するべきであろう。そして、大学によっては、IRを強要されるまでもなく、厳しい環境の中で自律的な経営を成り立たせるための戦略と改革と分析を繰り返していることも事実であり、こうした実情を無視したIRの一律押しつけが無意味であることも認識すべきだ。
 ただし、それでもIRは必要なのだ。IRの内実は、自らの大学を内省し発展に繋げるための各種内外の情報収集と分析、そしてフィードバックなのであり、わざわざIRと言う言葉を待たなくても、30年前の大学評価必要論が勃興したときに口酸っぱく言われたこと(PDCAだね!)であり、大学の根源的活動でもある。大学にとって不可避な営為のはずなのだ。
 ところが、あまりに当たりまえ過ぎて無自覚になり、状況によってはただのルーチンと化してしまったところもある。単に日常業務を回していけば、永遠に大学は存続し続けるという幻想の中に生きているような状況も、あちこちに見られる。
 そんなところに、「昼寝はおしまいだよ」と冷や水を浴びせたのが、IR必要論なのだ。私たちは、IRの専門家の警笛を契機として、改めて大学人としての自らを内省しつつ、大学の内外をしっかりと「わがことのように」見つめ直すことが必要であり、これこそがIRの端緒となるのではないか。これまで半ば身体化する形で、大学に関わる様々な知識やノウハウは、現場の教職員こそが持ち合わせているので、このドメイン知識をより良く花開かせる契機として、IRerの言に耳を傾けようではないか。

【注釈】
ⅰ この方式は、正確には、とある人から一度日本の政府に持ち込まれた後で、政府により“正当化”が成されたあと、「政府では〜」と半ば無批判に導入や関連する研究が正当化されるという手順を踏むことがほとんどである。
ⅱ 州立大学の場合は、州知事の権限が強いところもあり、一概には言えない。
  参考までに以下を参照されたい:
https://www.shidaikyo.or.jp/riihe/research/355.html
https://www.niad.ac.jp/media/001/201802/ni008015.pdf
ⅲ 参考までに以下を参照されたい:
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/coe/main6_a3.htm
ⅳ 参考までに以下を参照されたい:
https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/globalcoe/


【参考文献】
中村高康, 2007, 「高等教育研究と社会学的想像力 −高等教育社会学における理論と方法の今日的課題−」
日本高等教育学会編『高等教育研究』10:97-109.



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