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東京大学 中村高康 先生 「選抜試験の公平性について」
(第2回/全2回)

東京大学 中村高康先生 近影

東京大学 中村高康 先生

執筆者プロフィール
東京大学大学院教育学研究科 教授
東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。専門は、教育社会学。戦後日本の教育選抜のシステムと社会の変容、高校生の進路に関する量・質混合調査、社会階層と教育格差等の研究に取り組む。主な著書に、『暴走する能力主義』(ちくま新書、2018年)、『大学入試がわかる本』(編著、岩波書店、2020年)、『現場で使える教育社会学』(共編著、ミネルヴァ書房、2021年)など。




3.入試に公平性を求めすぎてはいけないのか


 私自身の認識は以上のようなものだったので、正直な話、これ以上「入試はそこまで公平でなくてもよい」という考え方が当然視されるようになることは危険ではないかと感じている。しかしながら、あれだけ公平性をめぐって大問題となり頓挫した大学入試改革が過ぎ去ったあとも、あちこちで「なぜそんなに公平性にこだわるのか」といった批判を、私はフォーマル・インフォーマルにたびたび聞いた。インフォーマルに聞いた話を書くのは適切ではないかもしれないので、ここではフォーマルに出ている議論に限定して、反批判的に取り上げてみたい。

 最初に取り上げるのは、橘木俊詔氏の著書『大学はどこまで「公平」であるべきか 一発試験依存の罪』(2021年、中公新書ラクレ)である。橘木の著作は、私の専門にも近い学歴関係の文献が多く、取り上げるテーマも興味を惹かれるものが多いので、時々参照させていただいているのだが、特にこの書はタイトルに惹かれて、すぐに購入して読んでみた。だが、この「公平」問題に関心があるものとしては少し残念な設定になっていたことは指摘しておかねばならない。タイトルからご推察の通り、この書ではまさに先ほど述べた一時代前の「公平性の規範」への批判がベースになっているのである。

 そこで展開されている入試の「公平性」に関する主張の一つを引用してみよう。

 「これまでの日本の大学入試は、諸所の事情でAO入試や推薦入試などが増えてきたとはいえ、基本は学力に基づく「試験」一辺倒だったと言える。
 こうした試験制度では、1点の差で合否が決まる、といった非情さもあろうが、少なくとも、同環境に受験生を集め、その場での試験で学力を測定する方法は「公平」であると頑なに信じられてきた。」
(橘木2021、4ページ)

 いかがだろうか。さきほどの1983年(40年前)の園田の認識とほぼ変わらないことがわかるだろう。橘木の名誉のためにいっておくが、この書は歴史と比較の視点から「公平」のあり方について考えるという点では参考になる情報も多く、一般書としての読みやすさもある。しかし、現在は一般入試(一般選抜)で大学に入学するものの割合は日本全体で半分にすぎないうえ、試験科目数の少ない「軽量」一般入試もたくさんある。それにも関わらず「「試験」一辺倒」と断じ、これまでの教育を「詰込み教育」と決めつけ、「公平さ」を「そう簡単に解決される課題ではな」いと認識しながら、「大学や入試は、単純な「公平さ」を金科玉条とした方針を貫いていくべきなのだろうか」(78ページ)と問いかけるスタンスは、私には、現状認識が現実とずれており、シンプルな一時代前の言説空間の影響を強く受けすぎた旧いスタンスにみえてしまう。繰り返すが、私たちは50年ほどかけながら「詰込み教育」を否定する改革を続け、一発勝負の「公平性の規範」を緩め続けてきたのであり、現状は今後さらに緩めてよいほど立派な状況ではなくなってしまっているというのが、私の認識だからである。本書には改革案も提案されているが、その前提となる現状認識が違っていては、改革も何もないのである。

 二つ目は専門書になるが、伊藤美歩子編著『変動する大学入試』(大修館書店、2020年)である。この本は、実は私自身非常に価値が高いと感じ、大学院の授業でテキストとして使わせていただいたほど気に入っている研究書である。ヨーロッパ諸国の最新の大学入試事情を、それぞれの地域事情に詳しい専門研究者が執筆しており、現地語がわからないと手に入らない情報も含めてコンパクトに整理されており、この領域に関心があるものにとってはたいへん貴重な良書である。

 しかしながら、1点だけどうしても注文を付けたいところがあった。それがこの「公平性」をめぐるスタンスだったのである。伊藤は「あとがき」で次のように指摘している。

 「学力を「一斉」に「筆記」で測定し、それを公平だ、客観的だと感じることが、一般的な感覚ではないということを、わたしたちは自覚する必要がある。学力あるいはそれに類する能力を完全に公平には測定することができないという前提に立ち、試験をより厳密に行うべきであるという信仰を見直さなければならない。」
(伊藤編著2020、271ページ)

 当然ながら、この書に紹介されているように、欧米を中心とする諸外国において日本と同様の受験システムを用いていない社会はたくさんある。そこでは、日本の感覚からすれば「不公平」にみえるやり方も、許容されていたりする。それはそうなのだが、だから日本の入学者選抜で「公平性の規範」を緩めていいという方向で議論すべき、とは私は思わない。先ほど来指摘しているように、日本の入試は批判者たちがいうほど「公平」ではないというのが、その第一の理由である。それは社会構造的な不平等のことだけをいっているのではなく(実はそうした社会構造的な不公平さは長期的にきわめて安定して存在しており、それも無視できないが、その点はあらためて論じたい。さしあたり松岡(2019)を参照)、手続き的な面でも「公平だ」と自慢できるほどではなく、なんとか日本の社会で許容される最低限のところを必死で保っているレベルではないかと考えるからである。厳密な公平性のイメージに近いのは、大学入学共通テストのマークシート採点だと思われるが、これだって批判をしようと思えば不公平の批判を浴びせることも可能なのである。つまり、「公平性の規範」のあり様は、程度問題でもなく、どこの国が進んでいてどこの国が遅れているということでもなく、社会・歴史・文化と絡んで成り立っている社会現象であり、相対的なものだということである。一例だけ挙げれば、大学入学にたどり着く前に進路が分岐し、多くの生徒が留年したり退学したりするヨーロッパ型システムは、違う文脈をもつ社会ではむしろ過酷なものとなりうる。日本のように上級学校への接続時だけに進路分岐が集中するシステムでは、現状の公平性を崩したような選抜システムを全面化させることは別の問題を引き起こす可能性が高い。事は規範だけの問題ではない(むしろそれ以外の要素が大きい気さえする)のである。

 もう一つ、伊藤編著の学術的価値に関わるものではないが、それが結果的に持つ政治的メッセージについて、私自身を大いに不安にさせたという点も付け加えておきたい。失敗に終わった大学入試改革(現在もまだくすぶっている部分があるのだがそれも今回は置いておく)は、善良な教育学者の議論とはまったくかけ離れたところで、どす黒い政治力学によって進んでいった面があると私は考えている。英語の民間試験導入はわかりやすいが(阿部2018や南風原編2018を参照)、国語・数学の記述式導入案もまた、採点は民間委託が大前提で進んでいた。主体性評価の枠組みとして進んでいたJAPAN e-Portfolioも、基本的に民間企業のサポートを受ける法人のプラットフォームを利用することになっていた。採点やデータ管理システムを請け負った事業者には、実績や組織の在り方などである種の奇妙な共通点があった。また、どれほど説得的な批判があっても、途中の段階では文部科学省は不自然なほど聞く耳をもたなかった。これらを見て、裏側に得体のしれない力が働いていたのではないか、と多くの人が疑念を抱き、反対運動をしていた人たちの間ではそれは常識化してさえいた。「公平性規範」が「教育理念」をつぶした、などというきれいな話ではまったくない。もしそう考えているとしたら、それはナイーブに過ぎるだろう。この一連の改革案を振り返るときに「公平性の規範」を批判することは、その得体のしれない力をもってずさんな改革を推し進めてきた誰かを強力に援護することになる可能性を、まじめに教育を考えている教育学者こそ自覚してほしい、と私は強く思う。

 いま、英語のスピーキングテストは、東京都立高校の入試に持ち込まれようとしている。構図は酷似しており、民間事業者に丸投げというところも、東京都がやはり不自然なほど聞く耳をもたないというところも、ほぼ同じ状況である。過去のことではない。入試改革はまだ現在進行中の政治案件であり、そのあたりの目配りもしなければならない時代なのである。


4.「公平性」は一度手放すと簡単には戻ってこない


 以上、2つの書籍を材料に「選抜試験の公平性」について考えてきたが、私自身は一発勝負の筆記試験のみをすべきだと考えているわけではないことは最後に付言しておきたい。
 大学入試や高校入試の研究をしていて感じたのは、ある程度長期的に維持されている現行制度はそれなりに社会のニーズに反応してできてきている面がある、というあたりまえの感覚である。大学入試の推薦やAOにしても、高校入試の内申書(調査書)にしても、そうした選抜方法を好む受験生がそれなりの数でかたまって存在するということは、調査結果等から感じてきたからだ。つまり、こうした制度によって一定数救われている受験生がいるということである。だから、これらを全面廃止して、筆記試験一発に戻そうというふうに思っているわけではない。
 しかしながら、すでにシェアが縮小して弱体化している筆記試験の部分に対して公平性の規範を崩すことを許容する文化が育ってしまうと、そこに入り込んでくるのは善良な教育学者や行政担当者ではなく、なにがしかの利害で動く特定の政治勢力や事業者、あるいは個人的体験などをベースに粗雑に教育を語る(発信力だけはやたらと強い)「有識者」などになってしまう可能性が高いと感じている。専門家にも教育現場にも軸足を置かないそうした勢力に対しては、専門的知見も現場の声も響かないため、制度を再変更することは容易ではなく、次に「やっぱり元の公平な選抜方法に戻そうよ」といっても簡単には元に戻らないのではないか。私の予想が杞憂であればよいのだが、昨今の教育をめぐる議論の動向を見ていると、その不安はぬぐい去りがたく私のなかに存在し続けている。
 選抜試験をめぐる「公平性」の主張は、それ自体が何か社会を大きく変革するものではないので、論者によっては後ろ向きに見えることもあるのだろう。しかし、実はそうした公平性の主張自体が民主的社会の、素朴だが重要な構成要素であるように私には思われる。公平な回路を可能な限り開いておこうとする制度や言説が脇に追いやられ、そうした回路を「改革」のために軽く扱うことが可能となった社会では、一部の者たちの暴走と迷走を容易に許す環境が一つ整うことになる。そうであれば、少なくとも現在の教育選抜の日本的文脈においては、すでにかなり崩れている選抜試験の公平性の規範をこれ以上意図的に崩す必要はないのではないか。これが昨今の選抜試験の公平性をめぐる諸議論を聞いたうえでの私の率直な思いである。




【参考文献】
 阿部公彦 2017. 『史上最悪の英語政策—ウソだらけの「4技能」看板』ひつじ書房
 南風原朝和 2018. 『検証 迷走する英語入試――スピーキング導入と民間委託』岩波書店(岩波ブックレット)
 伊藤実歩子 2020. 『変動する大学入試—資格か選抜か ヨーロッパと日本』大修館書店
 松岡亮二 2019. 『教育格差―階層・地域・学歴』筑摩書房(ちくま新書)
 橘木俊詔 2021. 『大学はどこまで「公平」であるべきか―一発試験依存の罪』中央公論新社(中公新書ラクレ)



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